30年ぶりの長崎にて

長崎に来たのは中学3年の修学旅行以来のことだ。恐ろしいことに、当時の記憶がほぼ残っていない。記憶力が悪い方だという自覚はあるものの、ここまで悪いというのはちょっと驚きでもある。20年前、本当にわたしは存在していたのだろうか。それともわたしが存在するのはわたしだけの世界のことなのだろうか。

まったく覚えていないというと語弊がある。なぜか出島に行くか戻るかのワンシーンと、長崎から福岡に移動して太宰府に向かった記憶だけはある。圧倒的なメモリ不足である。それは仕方がないとしよう。何かを覚えるという才能はすべて姉に奪われてしまったようだから。姉は幼稚園時代の友人を覚えているらしい。

まだ長崎に来て半日しか過ごしていないのだが、もしかしたらこれからここに何度もやって来るのではないかという想いと、街を歩いていると胸が締め付けられそうのな気持ちの板挟みにあう。比較的最近に同じような感覚になったのだが、それがどこだったのかは覚えていない。

記憶しないというのもある意味では才能なのかもしれない。

それぞれの街には積み重ねられてきた想いというものがある。歴史と呼ぶべきかどうかはわからない。例えば東日本大震災後の仙台の街は、悲しみが充満していた。そこには普通の生活がありながらも、それぞれが心に蓋をしているようで、繁華街ですらどこか悲しげだったのを覚えている。

長崎というのは、これまでわたしが訪れた中でも異質の場所のように感じる。台湾のことを「日本語が通じない日本」と表現したことがあるが、長崎は日本語が通じる外国といった雰囲気がある。あくまでも半日だけの経験で語っているが、どことなくエキゾチックで、余所者をを寄せ付けない壁がある。

余所者を好まないというのは鹿児島でも感じたのだが、鹿児島はそれでもまだオープンだった。薩摩隼人の意地ではないが、余所者を好みはしないが、プライドがあるからか形の上では受け入れてくれる。長崎にはそれがなくぬるりとかわされる。親しみの先にあきらかに壁がある(鹿児島もコロナ禍でどうなったかはわからないが)。

新型コロナウイルス感染拡大以降、鹿児島や広島、京都などに足を運んでいるが、どこも外から来た人をうまく受け入れているが、長崎ではあたりまえのように居酒屋の前に「県外からのお客様にはご遠慮いただいている」と張り出してあった。トップの写真がそうだが(写真は九州外だが)、他にもいくつかそういうお店がある。

それぞれのお店の方針だから文句を言うのは筋違いだが、正直なところそういうお見せがコロナ禍で潰れても仕方のないことかなとは思う。飲食店は客を選んでいる余裕はないところだが、それらのお店は県外からの客をNOとしている。かなり悩んだことだろうが、当然のことながら売り上げは落ちる。

自分たちで選んだ道だ。収益が減ってもいいという覚悟があるのだろう。ただ、都内とは温度差がかなりあるのも事実。東京の街を歩いてみれば、すぐにわかることだが、東京ではもう新型コロナウイルスにうんざりしている。専門家はそれを気の緩みというが、気が緩んで何が悪いかを示せている専門家はいない。

県外からのお客さんを入れないというのは、新型コロナウイルスが引き金にはなっているが、そもそも余所者が好きではないという文化があるのではないかと感じている。これは日本の行き止まりになる地域でよく感じることだ。東海道など通過点になる地域は、余所者を受け入れるのが得意だ。

だが鹿児島や高知、長崎といった地域は、どことなく排他的になってしまう感じがある。そして長崎というのはイメージとして暗さを伴う。それは原爆が投下されたことが影響しているのか、地域の特性なのかはわからない。長崎が小説や映画の舞台になるとき、なぜか陰を感じてしまう。

長崎のことを悪く言いたいわけではない。それは個性であり、そこが魅力につながるのだ。少なくともわたしは、歩きながら自然と賃貸物件の価格をチェックしていた。きっとここで暮らしたいという意識があるのだろう。なぜなのかはまだわからない。だが今のところ長崎にポジティブな感情はない。

今回は3泊4日という長くもなく短くもない時間をここで過ごす。帰りの飛行機で何を考えることになるのかは、今のわたしにはわからない。ただ4日もあれば、きっと何かを感じるはずだろう。それが前向きなものなのか、後ろ向きなものなのかはわからない。

ただ一つだけはっきりしていることがある。また来たいと思えるかどうかは、この街に受け入れてもらえるか、どれだけ地元の人とコミュニケーションを取れるかにかかっている。今のところは見事なまでに壁しかない。4日でこれを乗り越えていく自信はないが、とにかくいいところを探していこうと思う。

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