替天:北方水滸伝との出会いから20年以上の時間が流れた今だから

待ちに待った北方水滸伝のドラマが配信サービス「lemino」で放送開始になりました。個性が強い俳優陣ということもあり、俳優さんの色が強くなるのではないかと不安がありましたが、ちゃんと水滸伝になっていました。歴史物ということも影響しているのかもしれませんが。

まず、映像の美しさを取り除き、その時代背景を映像で表現しておるのが素晴らしく、違和感なくドラマの世界へと入っていけました。もっとも中国ドラマ以外のドラマを見るなんて10年以上していないので、水滸伝が特別なのかどうかわかりません。

10年ひと昔と言って、10年もあればあらゆるものが進化しているわけです。その中でドラマやバラエティ番組だけが以前のままというわけはないはずです。今のドラマを見たら、それはそれで驚きがあるはずです。監督も若い世代になっているはずですし。


それはともかく、水滸伝の話。水滸伝シリーズはすでに4作品目になっていて、いまちょうどチンギス紀を読んでいるのもあって、水滸伝の冒頭は懐かしさもありつつ、古いさも感じてしまいました。実際に水滸伝が世に出たのは1999年のこと。

その頃はまだ私は水滸伝はおろか、北方謙三さんに興味を持っていなかった気がします。大学院の時代なので、読んでいても村上龍さんとか石田衣良さんとかが中心。面白いもので「アイドル」は女性が好きで、「作家」は男性が好き。どこに線引きがあるのかはわかりませんが。

村上龍さんは大人への通過儀礼みたいなもの。彼の作品に出会っていなかったら、今の私はありません。その当時は文体も村上龍さんに近く、親しい人に「村上龍みたい」と言われたこともあります。そういう個性ではなく、影響を受けただけですが。

水滸伝を読み始めたのはいつだったかはもう覚えていません。まだ、世の中に電子書籍が出たばかりで、水滸伝の多くは図書館で借りていました。もう20年以上も前の時代に書かれたもので、それをいま映像化したところで古さを感じるわけです。

物語としてもチンギス紀が洗練されているのように感じます。書き続けてきた歴史の上にあるストーリーなので、当然のことではありますが。ただ時代とともに求められるもの、北方謙三さんが書きたいものが変化してきたのだろうなとは思います。

水滸伝のキーワードは「志」です。いや「替天行道」だろうという人もいるかもしれませんが、「替天行道」はキャッチコピーや旗印のようなものだと私は考えています。「替天行道」の本質は志にあり、梁山泊にはそれが受け継がれてきました。


でも、あるときから志が語られなくなり、チンギス紀では志という表現が使われることはほとんどありません。チンギス自身が志にとは別のもので動いているので、水滸伝とは色がまったく違います。だからドラマで「志」という台詞が出てきたときに、懐かしさを感じつつ古さも感じました。

いまの時代に志が必要なくなったのかというと、もちろんそんなわけはありません。志はいつの時代もそれぞれが心の中に持つべきもの。でも、それを表に出す時代ではなくなってきたのかもしれません。炎は小さく胸の奥で燃やすものであり、ひけらかさないほうがいい。

自己主張することが高く評価される時代だから、私は余計にそう思います。だから「志」が引っかかったわけですが、あれから20年が経過して私はそれをどう受け取るのか。これからの放送を楽しみにしています。1時間近い視聴はなかなか疲れますが。

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