不安:理解できないものとどう向き合うか

自分に理解できないものに面したときにどのような行動を取るか。これはとても興味深いテーマで、もちろんそこに正解などありません。理解できないから自分の視界から遠ざける人もいれば、そこに好奇心を示し、もっと深く知りたいと考える人もいます。

基本的には遠ざけるか受け入れる、もしくは深掘りするかのいずれかの行動につながるわけですが、最近は「反論する」という行動を示す人が一定数います。いうまでもありませんが、その選択肢を作り出したのがSNSです。SNSのタイムラインの多くが「反論」で成り立っています。

SNSが広まるまでは、理解できないものに対して反論するとすれば、仲間内の小さなコミュニティ内で完結していました。それこそお酒の場で理解できないものに対して、仲間と共有してきたわけです。そして、話のネタになって理解できない気持ち悪さを消化したわけです。


ところがSNSの誕生により、誰もが理解できないことに対する感情を瞬間的に発信できるようになりました。SNSが荒れる理由のひとつはそこにあるような気がします。理解できないものに対する不安をどう解消するかが、以前とは違うわけです。

ただ困ったことに、理解できないという投稿そのものが、また新しい「理解できない」を生み出し、そこで連鎖が生まれるわけです。その結果が炎上だったりするわけです。さらに複雑なのは、その仕組みを理解している人の中には、あえてそういう投稿をする人がいるということ。

いわゆる「釣り」という行為で、あえてみんなの「理解できない」を生み出すことで炎上させ、それを楽しむ人が一定数います。個人的には上手くやるもんだと感心していますが、SNSの姿としては健全ではありません(その考え自体が古いのかもしれませんが)。

直近でいえば、大阪マラソンでの吉田響選手の飛び出しに対して、賛否の声がXに投稿されました。それこそ「理解できない」という声も少なくなく、そして物分かりのいい人を演じるために「素晴らしい挑戦」などと褒める人もいました。

なぜ他人の行動に対して、あれこれ語りたがるのだろう。これが私の率直な気持ちです。私は大阪マラソンを視聴していませんし、そもそも他の選手のレース展開も結果も「どうでもいい」というスタンス。理解できるできないではなく、「It’s none of my business」なわけです。

一方で平林清澄選手の結果くらいは気になります。違いはどこにあるのかというと、平林選手は1度インタビューをしたことがあり、そして大阪マラソンを取材したときに彼が快走したという思い出があるということ。かすかな接点でもあれば、そこに興味が生まれます。


別に他人に対して興味を持つなと言っているわけではありません。むしろそちらの方が人間らしいのかもしれません。ただ、私たちに与えられた時間は有限で、人生でやれることには限りがあります。その中で理解できないことをSNSに投稿して消化するのはもったいないなとは思います。

理解できないということは心に引っかかったわけで、その理由を自分なりに分析して、そして自分の中に取り込んだほうがいいのになと。「理解できない」と言葉にするのではなく、じっくりゆっくり噛み砕いて、自分のものにしていく。

SNS時代に失われつつあるスタイルで、もはやそんな面倒なことは誰もしていないのかもしれません。でも、誰もしないからやったほうがいい。それが周りとの差別化になり、どこかで武器になることもあるので。少なくともライターなら、「理解できない」で終わらせないことです。

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