
1日ひとつ手放す生活をしていましたが、それが終わった翌日にいくつかのものをまとめて手放しました。あれほど苦しんでいた手放すもの選びが簡単にできてしまうことに驚きです。もっとも、公表しないから手放せるものもあります。
その代表的なものは誰かにいただいたもので、必要ないものでもプレゼントとしてくれた人がそれを見ている可能性があるとやはり公には手放せなくなります。そういったものがまだいくつかあるのですが、年内には処分し切ろうと思います。
私が誰かに何かを贈るときには、基本的に食べ物か飲み物を選ぶようにしています。いつまでも手元に残さずに済むので相手に「捨てたいんだけど」と気を使わせることもありません。ただ、何を贈るのかはかなり時間をかけて決めます。
自分が好きなものを贈るのが理想ですが、それができないときもあります。そういうときに何を選ぶかでセンスが問われますが、喜んでもらえそうなものを見つけたときは嬉しくなりますし、実際に喜んでもらえたときは大きな仕事をやり遂げたような気持ちになります。
一方で自分のために何かを買って帰るというようなことは、ほとんどしなくなりました。北京も山形も自分用のお土産はひとつも購入していません。また行くからというのもありますが、日常生活においては特別なものを必要としていないためです。
毎日同じものを食べる生活でも何も困りませんし、むしろシンプルでいいかなと。同じものを食べ続けても、毎回「美味しい」と思える能力が備わっているのも影響しているかもしれません。私が「食通」ではなく「食いしん坊」な理由でもあります。

私だって美味しいものが好きですが、大抵のものは「美味しい」と感じるわけです。ときどき自分の味覚がおかしいのかと思うこともあるのですが、フードコートなどで残念な気持ちになることもあるので、何でも美味しいと感じるわけではないようです。
おそらく、気付かないうちに自分が満足しないものを選ばないようにしているのかもしれません。ただ、食べ物や飲み物に対して、「美味しい」とか「美味しくない」というのは品のないことだという自覚はあります。だから最近は好みの味でなかったときには沈黙を守るように心掛けています。
本当は美味しいと感じたときも沈黙を守るべきなのでしょうが、それができないのが食いしん坊たる所以でもありますが、さすがに知命になったわけで、それもそろそろ変えていきたいところ。美味しいものでも自分に合わないものでも、表情を変えずにありがたくいただける大人を目指します。
ただ、美味しいものを求める気持ちまでは手放すつもりはありません。一緒に食べに行く人に喜んでもらうには、やはり美味しい料理やお店を知っていて、そこに案内するのが1番です。万里の長城マラソン参加者を美味しいお店に案内すると、それだけで北京を好きになってくれます。
美味しいいお店は探すけど、それを語ったりはしない。何も伝えずに案内したお店が美味しいほうがサプライズ感もあります。おしゃべりな私はついつい「これから行くのは美味しいお店で……」と自分でハードルを上げてしまいがち。これもやめたいことのひとつ。
50歳になったから中身が変わるわけではないので、すぐに変化することはできませんが、ゆっくりとシフトしていきたいところ。そんなことを言いながら今週末の岩手では「美味しい」を連発してしまう未来しか見えていませんが。
