
昨日は建国記念日だったようで、そんなことは知らずに私は昨年途中で継続を断念した記帳を行っていました。まだ多くの領収書が残っているのですが、今の時点で赤字なのでこれを入力する必要があるのだろうかと。とりあえず100円ショップの領収書はそのまま捨ててしまいます。
建国ということは日本ができた日ということになるのですが、それが神武天皇の即位日とのこと。それが紀元前660年2月11日。そんな時代に歴があったというのが驚きですが、日本という国にはそれだけの歴史があるというのも冷静に考えて驚きです。
ただ、これは大和の歴史であり、日本の歴史とイコールかというと難しい話です。少なくとも紀元前660年には蝦夷も琉球も日本ではなかったわけで。関東すらあやしいところ。それを言い出すといろいろ複雑になるのであまり深入りしませんが。
国とは何なのか。もうずっと追いかけているテーマです。国は国民のものという風潮がありますが、そうなったのは民主主義が広まってからのことで、実はそれほど歴史は長くありません。国には王や皇帝がいて、それらが支配する領土が国だった時代のほうが長いわけです。
中国にいたっては、民は常にそこにいて、歴史とともに支配者が変わっていきました。そうなると国は民のものではなく、民は国に属して入るけど国は民のものではなくなります。日本だって江戸時代まで遡れば、国は江戸幕府のものでした(正確には天皇のものですが)。
民は国を選ぶことができない。現代においてはそれはもはや常識ではなくなっていますが、そうはいっても日本人が日本という国の民であることを捨てて、他の国に属するのはなかなかハードルの高い話です。だから、多くの人は納得がいかなくても現状維持を選びます。
国のあり方が納得いかないなら選挙で変えればいい。それが民主主義なのだからという声もありますが、それこそが民主主義の罠でもあります。「力ではなく対話で」これは正しい理論のように思えますが、それは単純に力による支配が悪いものだという常識を植え付けられているからにすぎません。
成熟した社会において暴力は悪であり、対話こそが大人な対応になる。それは(物理的に)力がない人間の示す正義であり、世の理における正義ではありません。ただ、それによって暴力によって命を落とす人は少なくなるのは事実なので、正しくないとは言えないのですが。
ただ、100年後も200年後も民主主義が続いているとは限りません。圧倒的なカリスマ性を持った1人の人間が世界を帰る可能性だってあります。核により世界がリセットされたとして、必ずしもそこに民主主義が再構築されるとも限りません。
そうなったときに、日本という国はどうなるのか。たとえば戦争で東京が消滅するようなことがあり、日本が象徴を失ったときに、この国は日本であり続けることができるのか。そこから新しい国を建国することはできるのか。ときどき、そんな答えのないことを考えています。
国とは何なのか。これは答えのない問いであり、でも答えを探すことを諦めてもいけない問いでもあります。私は日本人で、日本という国に属している。そして、それを変えることができる時代に生きています。その一方で国を興すことが難しい時代でもあります。
自分が建国するなんて未来はないのですが、でも他の誰もできない。これは冷静に考えれば歪な時代ともいえます。誰にでも建国する権利はあるはずなのに、それが現実的ではない。それは本当に正しいことなのかどうかは私にはわかりません。ただはっきりしているのは、始まりがあれば終りがあるということだけです。
