桜月:どうだっていい世界で真摯に生きる

「咲いてしまった桜は悲しいだけ」と言った君の気持ちが、少しだけではあるけど、ようやくわかった気がする。咲いてしまったら、あとはもう散るだけで、また1年ほど待たなくてはいけない。そして、次の桜を神様は約束してくれない。

ただ美しいとしか思っていなかった。あの頃は桜を見られる回数に限りがあるなんて考えもしなかったし、未来は永遠に続くような気がしていた。そうではないことを僕は痛いほど知っているし、美しさは儚さのうえに成り立っていることも。

誰よりも早く大人になりたかった。自立して、自分の生活を自分で成立させる。そこが僕のスタートライン。そう決めていたから、家を出て一人暮らしを始めるときには、不安よりもワクワクが勝っていた。やっと始まるのだと。

始まりがあれば終わりは必ずやってくる。それも唐突に。そして、50歳を迎えて分かったのは、ゆっくりと壊れながら終わることもあるのだということ。毎日のように「もう若くはない」と嘆いている。どれだけ抗っても限界はやってくるから。

悲しいわけではなかった。すべての傷は時間が解決してくれたし、悲しいなんて考える時間もないくらい全力でやってきたから。それでも、まだ甘かったのかもしれない。僕の全力は誰かにとっての通常よりかもしれないし、何よりもまだ何も成し遂げていない。

もっとできるはずだった。世界に驚きを与え、喝采を浴びながら、ゆっくりとフェードアウトしていく。そんな未来はどこにもなく、今日もまたひとつすり減らしていく。世の中に対する不平不満はない。足りなかったのは僕のせいだから。

満員電車で押しつぶされそうになりながら、僕はただひたすらに耐える。続かないのは嬉しいことだけじゃない。駅に到着するたびに圧力は薄れていき、いつのまにかロビンスブルーが広がっていく。これが桜色だったら、少しは晴れやかな気持ちにもなるのだろうか。

疲れきった僕はコンビニに立ち寄り、最初に目に入ったお弁当と発泡酒を手にレジへと向かう。昨日何を食べたかなんて覚えていない。あの日、君と食べたパスタの味は今でも覚えているのに。もしかしたら、僕らの脳には大切な記憶を保護する機能があるのかもしれない。

もし、もっと嬉しいことを経験することで、大切な記憶が上書きされるとするなら、僕は過去の記憶とこれからの記憶、どちらを選ぶのだろう。きっと多くの人は未来を選ぶのかもしれない。忘れることができるのも人間の強さだと、どこかの偉い僧侶が言っていた気がする。僧侶に偉いも偉くないもないはずだけど。

湯船に浸かり、ゆっくり呼吸を整えてみる。結局のところ、どうだっていいのだ。抱え続けている胸の痛みも、仕事で起きたトラブルも、君がついた小さな嘘も。どうやっても僕は生きていける。大切な記憶を失っても、守り続けても。

結局のところ、僕らがやるべきことは「生きる」ということだけ。桜の花を留めておくことも、春が終わらないようにすることもできないから。ただひとつだけ願いが叶うなら、美しく散りたいと。君が羨むくらい。

開花宣言をきっかけに、春が一気に広がっていく。頬に触れる霧雨をどことなく優しく感じ、僕は「またひとつ約束を果たせたよ」と胸の奥で静かにつぶやいた。

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