
札幌から富良野までバスで約3時間。北広島で仕事をしていたときに1回くらい来ておけばよかったと思うものの、当時は精神的にも肉体的にもそんな余裕はなく、私にとっては長沼あたりが限界で、富良野の存在すら頭からすっかり抜け落ちていました。
27年ぶりの富良野。そのときはバイクでの移動だったので、当然ながら見える景色も違うのですが、そもそも何も覚えていないタイプなので、富良野の町そのものが新鮮でした。そして思っていたよりものんびりしてて、居心地の良さそうな場所でもありました。
ただ、まっすぐに伸びた道路を見ると、どうしても北海道の開拓の歴史が頭に浮かぶため、心から北海道を楽しむという感じではありません。それでもずっと眺めていたくなる瞬間もありましたし、行ってよかったとは思っています。何より友人家族に会うことができました。
日本にはまだまだ知らない土地、行ったことがあるけど覚えていない土地がたくさんあります。それらすべてを訪れることはできませんが、縁があれば今回のように足を踏み入れることができます。それは大きな楽しみであり、希望でもあります。
未知の世界に飛び込む。この歳になるとそのような機会がどんどん減っていきます。今回、線香花火をしたのですが、友人の息子はアメリカ育ちということもあり、人生初の花火だったようです。これからたくさんの経験を積んでいく。楽しいことも悲しいことも含めて。
私にもまだ時間はありますが、初めての経験は減っていきます。最も悲しいことは、美味しいものを知ってしまっているということ。初めて北海道を旅したときには、コンビニのおにぎりでさえ感動しましたが、今では人気店のお寿司でも感動することはありません。

もちろん、美味しいとは感じますが、人間というのは困ったもので、経験したことがあるものに驚くこともなければ、心を揺さぶられるようなこともありません。その中でも初めて食べるものや、感動するような料理にであうこともありますが、それは余白が減っていくことを意味します。
おそらく「豊かさ」や「幸福」という視点で考えたとき、心が動くような経験はできるだけしないことが大切なのかもしれません。美味しいものを食べたいなんていう気持ちが、自分の豊かさや幸福感を削っていく。「もっと」を願うから、貧しくなっていく。
とはいえ食いしん坊であることは、いまさらやめられる気がしません。でも、これは食べ物に関することだけではなく、あらゆることに通じる話です。「もっと速く」と思って走っていたことで、たくさんのことを見落としてきました。失ったものもあります。
禅語に「知足」という言葉があります。読んで字の如く「足りるを知る」ということですが、私もそろそろ知足を意識すべきタイミングなのかもしれません。旅先で美味しいものを食べようとするのではなく、ふらっと思いつきでお店に立ち寄る。空腹を満たせればそれでいいくらいの感覚で。
そのスタンスが、結果的に満足感につながるような気がします。今は何でも調べられる時代で、美味しいお店かどうか事前に口コミを確認できます。ても、そのやり方を変えなくてはいけない頃合いなのかもしれません。それで失敗しても、ただの1食ですから。
何も意識せずに未知に飛び込む。それは簡単なことではありませんが、それが許される年齢にもなってきました。良いも悪いも一期一会。好ましいものを追いかけるのではなく、どんな経験も受け入れて、すべてを糧にしていく。そういう自分にシフトチェンジしていきたいところです。
