
大迫傑選手が興味深い言葉をXに投稿していました。「いつから自分に優しく、人に厳しい時代になったの?」この前の文脈があってのことの言葉なのですが、そこを載せると今日のテーマからブレてしまうので、興味がある人は彼の投稿をチェックしてください。
そして保険をかけておきますが、別に大迫傑選手の揚げ足を取りたいとか批判をしたいという話ではありません。この言葉に引っ掛かりがあり、どこになぜ引っかかったのかを自分なりに整理しておきたいと考えて思って言語化しているだけです。
「いつから自分に優しく、人に厳しい時代になったの?」。この言葉には文章化されていない思いが含まれています。大迫傑選手の意図がそうなのかどうかは知りませんが、国語の問題とするならこの言葉からは「自分に厳しく、人(他人)に優しい時代」があったと読み取れます。
これはSNSの時代になる前から使われてきた表現であり、「昔はよかった」という気持ち、現代を嘆く気持ちを表現するときに使われます。もはや伝統的な言い回しに近いものがあるのですが、では歴史的に「自分に厳しく、他人に優しい時代」などあったのか。
ここが今回のテーマになります。私の結論からお伝えすれば、「そんな時代はない」ということになります。100年前も1000年前も「自分に優しく、人に厳しい時代」であり、別にSNSの定着で、時代が変わったわけではありません。
陰口として見えないところで語られていたことが、SNSによって表面化しただけ。誰かを批判したり、叩いたりするという行為は人間の本能的な面であり、人類史において、それがなくなったことは一度もないはずです(過去を生きたわけでないので推定ですが)。

SNSにより拡散されやすくなったという違いはあれど、いつの時代も他人に厳しい人はいたはずです。いや、基本的にはみんなそうなわけです。でも、「自分に厳しく、他人に優しい時代」があったと思い込んでいる人が少なくありません。
では、なぜそのようなことになるのか。それは「自分に厳しく、他人に優しい」が美徳であると教育されてきたからです。テレビアニメのヒーローも時代劇の主人公も、みんな「自分に厳しく、他人に優しい」という設定で、それがあるべき姿とされてきました。
そのことは別に構わないのですが、これは人間が自分に優しく、他人に厳しいという本質を持っているという事実の裏返しであることを理解しておく必要があります。誰もが「自分に厳しく…」の精神を持っているなら、ヒーローは存在意義を失います。
もちろん「自分に厳しく……」という人も、どの時代にも存在します。歴史的な人物となり、ドラマや映画、小説などで、その人徳を語られることもあります。それは理想であり、特別であるからなのに、それこそが日本人の姿だと思い込んでいる。
だから大迫傑選手の「いつから……」に対して、「いつそうでない時代があったのか」と問いたくなったのですが、そもそもの投稿の趣旨から論点がズレますし、何よりもそんなことを彼に問うても意味はないので、とりあえずモヤモヤをここに書くことにしました。
ちなみに「自分に厳しく、他人に優しくあれ」と諭すのは、他人に厳しい言葉です。すでにお伝えしましたように、人間の本質的な部分を変えろと言っているようなものなので。あえて表現するなら、「自分に甘く、他人に厳しくしていることを恥ずかしいと感じない人が増えたことが悲しい」くらいが落し所のような気がします。
