白紙委任:国という理不尽な枠組み

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今回の選挙は期日前投票となりました。というよりも、マラソンを始めてから期日前投票にならなかったのが、数えるほどしかない気がします。どうしても行けなかったのが1回だけで、あとはきちんと国民の義務を果たしています。ただ、海外に行くと「国ってなんだろう」という思いが湧いてきます。

私は日本人です。でも、日本という国と契約を結んだわけではありません。出生届が契約になるのかもしれませんが、少なくとも私は自分の意思で日本人になったわけではありません。私の両親が日本人で、私が生まれたのが日本という国であったから、私は日本に属する人間ということになっています。

あまりにも当たり前すぎて、お前は何を言っているのだとツッコミを入れられるかもしれませんが、本当にそれは当たり前のことなのでしょうか?私の中では「結婚」という制度と同じくらい理不尽さを感じます。生まれたときには世界がすでにそうだった。でも、納得はしていません。


いま、私は日本人ですが、どこかで革命軍が放棄して、この国が大和国になったなら、私は大和人になります。個人的に契約したわけでもないのに。そして、冒頭の話に戻るわけです。「国ってなんだろう」と。国がなければ秩序を守れません。ただ、国があっても秩序は乱れます。

私は日本人ですが、日本人でなくなることもできます。でも、どこかの別の国に属しなくてはいけなくなります。国籍を変えるという話ですが、まず国ありきの話になっていることが釈然としないわけです。どこにも属さないという選択肢がない(少なくとも私の知っている範囲では)。

勘違いしないで欲しいのですが、私は別に日本という国を否定したいわけではなく、嫌っているわけでもありません。でも、日本人であることに誇りは持っていません。日本人であることを活用することはあっても、それは納めた税金に見合うだけの活用をさせてもらっているだけのこと。


今回の選挙で「白紙委任」という単語を何度か目にしました。若者が選挙に行かないことは、白紙委任と同じというニュアンスで使われていましたが、私は別にそれをおかしいことだと責める気にはなりません。本気で選挙に行ってほしいなら、政治に関するドラマや配信をどんどん増やせばいいんです。

それは少し乱暴なやり方ですが、少なくとも今は選挙に行くための重要性をわかりやすく伝える工夫は全く感じられません。いや、そもそも選挙が大切という人でさえ、本質的になぜ投票が大切なのか論理的には語れないはずです。誰が統治しようが、庶民は目の前のやるべきことをひとつずつ片付けるだけですから。

誰が統治したって完璧な国にはなりません。むしろ、優秀な統治者には巨大な反対勢力が生まれて、国は大きく分断されてしまいます。若者に必要なのは、未来を見させてくれる指導者であり、だから山本太郎さんのような人がもてはやされたりします。


ただ、彼では大勢の人は動かせません。彼は指導者としてはあまりにも薄く、ないものをあるように見せかけるのが上手い人。だから、最終的には彼のファンしかついてこなくなるわけです。それでも、なかなか大きな勢力ではありますが。

そんな彼も「国」という形に囚われています。もうその時点で、若者が望む真の指導者にはなりません。いま望まれているのは、現状をひっくり返すくらいぶっ飛んでいて、エネルギーに溢れた人。何かを変えてくれるかもしれないと期待させてくれる人。

残念ながら、そういう人は選挙には出ません。そういう人にとって「国」という枠は理不尽であり、人生の妨げでしかないから。何も望んでいない。別にそんな人がいてもいいんです。少なくとも私がそうなので。マラソンランナーは、与えられた環境で淡々と走り続けられる生き物ですから。

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