私が初めて中国に行ったのは、アルプス技研時代のこと。社内論文が最終選考まで残り、その選考に残ったメンバーでプロジェクトが発足したのですが、それとは別に論文のご褒美ということで、海外に行ってもいいという話になりました。
私は当初、キューバに行くつもりだったのですが、会長が「全員で中国を見て来い」と鶴の一言。キューバは自費で行き、会社のお金で上海と北京に行ってきました。私が2000年入社で、入社1年目の大抜擢みたいな話だったような記憶があるので、おそらく2000年もしくは2001年のこと。
北京オリンピックに向けて中国全土が盛り上がっていて、「これからは中国の時代」というのが世界的な共通認識となっていました。あれから四半世紀しか経ってないことが信じられませんが、あの当時は発展途上国であり、「中国なんて」みたいな風潮があったのも事実です。
ただ、成長に向けての熱は確かにそこにあり、そして私はしっかりとその熱にやられてしまったわけです。「ここには未来がある」そう強く感じたのですが、もちろんその当時に万里の長城を走るマラソン大会を運営する立場になるなんて考えられませんでした。
まだランナーでなかったどころか、サッカーへの未練も残っていた頃。いま思えば、その未練を断ち切ったのが中国の熱だったかもしれません。そこからことあるごとに「中国で仕事したい」と社内で言ってきたのですが、アルプス技研の中国支社ができたときも、北京に行くという話は一切なく。
そこから北京を再訪するのに、かなりの時間がかかりました。友人が長春で1年間の期限付きで働くことになり、それに合わせて夏と冬に2回ほど北京経由で長春に行きました。それが引き金となり、私の中で中国熱が再燃し、万里の長城マラソン参加となったわけです。
もっとも万里の長城マラソンに参加したのはバンクーバーマラソンに行こうとしたら30万円とか40万円とかかかるということで断念し、たまたま見つけたのが万里の長城マラソンでした。ただ、運命を信じるなら、それは偶然ではなく必然だったのでしょう。
そこから紆余曲折あっての万里の長城マラソン日本事務局の設立でしたが、今では実家のある松山よりも北京の方が訪れた回数が多いくらい、何度も北京を訪れています。あまりに行き過ぎて、初めての訪中する人が何に困って、何に感動するのかもわからないほど。
それでも行くたびに変化があるので、退屈することはありません。パンデミック後は外国人もスマホ決済ができるようになり、クレジットカードを使って地下鉄に乗れるようにもなっています。現地の電話番号がなければできないこともあるので、まだ不便なところはあります。それでも随分旅をしやすくなりました。
北京の人は基本的に人懐っこいところがあり、私は親切にしてもらえる機会が頻繁にあります。このあたりは、人によって感じ方が違いますので、中国人は信用できないとか、中国は嫌いとかいう人もいて当然です。ただ、イメージだけで中国を嫌うのはもったいないことです。
私がキューバに行ったのは、作家の村上龍さんが「キューバは最高」みたいなことを言い続けていたことが影響しています。私には彼ほどの影響力がありませんが、「北京は最高」と言い続ければ、それほど言うならどんなものか見に行ってやろうという人も出てくるはず。
万里の長城マラソンも同じですね。とにかく誰かのきっかけになればいいなと。そしてそれが仕事になればさらにいいのですが、まだそこまではイメージできておらず。でも、胸を熱くした20代の頃の情熱の炎はまだ燻っているので、虎視眈々とチャンスを伺っています。