やさしさとは【不惑はとっくに過ぎたのに迷うことが増えてきました】

ラソンのレースで並走を頼まれて、残り11kmのところから並走。実際にはまったく走れてなかったので、横について歩いただけなんですが、そういう状況で残り6kmくらいから、寒さと足の痛さで泣き始めてしまいました。さて、このときどうするのが正解か?

相手は17歳の女の子で、私の拙い英語で少し冗談を言えるくらいのコミュニケーションしか取れません。寒いことに対して上着を貸してあげることはできます。足が痛いことに対して、ほぐしてあげることもできます。でも、マラソン大会なんです。

マラソンは基本的に他力に頼ったら失格です。17歳に対して、しかも公認大会でもなんでもないのに、厳格に考える必要はないのですが、本当の問題は別のところにあります。それは、手助けして完走させることが彼女のためになるのかという話です。

このとき2つの考え方があります。ひとつは「成功体験をさせる」ために全力でサポートする。もうひとつが「挫折を経験するのも大事」と考えて、まったく手出しをしないということです。前者はアルプス技研時代に、私が嫌悪した考え方。

並走するだけでも他力に頼っているわけで、その上至れり尽くせりで完走したところで、それが彼女の人生にとって本当にプラスになるのか。完走できずに悔しい想いをして、それをバネにして再チャレンジするほうがプラスになるのか。

きっと正解はないんです。生き方のスタンスの問題で、それぞれに正解があります。ただ、歳を重ねて「自分のやり方だけが正解ではない」ことを知ってしまうと、逆に迷いが生じました。今までなら「挫折も経験」と断言できたのですが。

もちろん自分自身のことなら「挫折も経験」になります。たくさん挫折して、たくさん失敗して経験を積めばいい。でも、それだと折れてしまって前に進めなくなる人がいることも、この年になるとわかります。ずっと手助けすべきだったのかで迷っています。

流石に17歳ともなると自分の子どもだったとしてもおかしくない年齢で、父性みたいなものが働いた可能性はあります。子どもには失敗してほしくないみたいな感情。確かに相手が同い年の人なら、迷うことなく手助けをしないという選択をしたと思います。

また、並走したからにはきちんとアシストしてあげたいという考えもどこかにあったのかもしれません。私は並走で失敗したことがほとんどありません。鬼のタイムキーパーになるので。ただ、それも傲慢な考え方、思い上がりかなとも思います。

そこでタイトルに戻るのですが、やさしさってなんなんでしょうね。乃木坂46の楽曲に「やさしさとは」というタイトルの歌があって、私のお気に入りのひとつなんですが、何をやさしさとするかは人の数だけあって、でも時として正解と不正解があります。

困ったことに正解だったことが、時間の流れで裏返って不正解になることもあって、もちろんその逆もあります。誰かのために行動するのが私のライフワークですが、本当にその人のためになっているのかなとこの1年で何度も考えています。

私が手出ししなくても、その人の人生はどこかへ向かっていたわけで、余計なお世話をしてるんじゃないかなと。喜んでもらっているのは私の思い込みで。同じ「喜んでもらえる」でも、美味しい朝ごはんを作るのとは話が違うわけです。近々48歳になるというのに、迷ってばかりです。

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