
Xでの武井壮さんの投稿が盛り上がっていますが、Xほど議論に向いていないプラットフォームはないのに、なぜみんなXで議論しようとするのか不思議で仕方ありません。どんなに頑張ってもXでは議論が噛み合うことはありません。
文字数制限の問題というよりも、日本語がSNSと相性が悪いと私は考えています。だから私はSNSは「tweet」するだけのものとして利用しています。自分の主義主張を投稿したところで、自分の想いの半分も伝わらないどころか、間違った伝わり方をしてしまうので。
ただ、今回の盛り上がり内容には少し興味があります。才能と成長限界の相関性。少し乱暴な表現をすると、「1500mの4分切りくらい努力で超えられないわけがない」とする武井壮さんと「4分を切るには才能が必要」と反論する人。
どちらが正解なのかは私にはわかりません。「サブ3くらい努力で超えられないわけがない」ならわかりますが。サブ3は努力で達成できます。達成できていない私が言うことではありませんが、人生すべてを賭けてサブ3を達成できない人は基本的にいないと考えています。
ただし、なんらかの身体的ハンディキャップがある場合は別です。たとえば生まれつき半身麻痺という人に「誰でも努力でサブ3は達成できる」なんてことは言えません。ちなみに「誰でも」という表現もSNSで誤解を生む言葉になります。
たとえば「誰でも努力でサブ3は達成できる」と私が投稿したとして、Aさんが「重度の呼吸器疾患がある人でも達成できるのか?」とリプライしたとします。まずAさんがどの温度でリプライしたのかを感じる必要があり、シンプルに疑問に感じてリプライした可能性もあれば、怒りを込めてリプライした可能性もあります。

いずれにしても「誰でも」と投稿した時点では「重度の呼吸器疾患がある人」は想定できていないわけで、ただ心のどこかで「それは詭弁だ」という思いも抱えることになります。そうならないためには、「誰でも」に条件をつけなくてはいけないのですが、SNSではそこまで表現するのは困難です。
たとえば「身体的ハンディキャップがなく、小中高の体育の授業を問題なくこなせる身体能力を備えている人は誰でも」みたいな巨大な修飾語句を並べないと、意図を曲げて受け取る(曲げて受け取ったふりをする)人がいるのがSNSです。SNSで「意図を読み取れ」はそれ自体が傲慢な考え方になります。
それはともかく「努力だけでどこまで人は成長できるのか」。この問いにはさらに大きな問いが隠されています。「人はどこまで努力できるのか」これが本質なんだと私は考えています。すべてを投げ捨てて努力できれば、私たちが想像している以上の結果を出せる。それは事実だと思います。
でも、それは努力できることが前提になっています。実際には努力には限界があります。それは才能に限界があるのと同じです。人間には個体差があり、それぞれの身体能力には限界があります。そして誰もが同じように努力できるわけではありません。
それを甘さと呼ぶ人もいますが、それこそ身体的ハンディキャップと同じように精神的ハンディキャップもあり、努力したくてもできないケースもあります。そして何よりも身体的にせよ精神的にせよ、ゼロイチではないということ。ここを共有せずに議論しても、今回の議論が噛み合うことはありません。
ただ、できないことを才能のせいにするのは違うかなと。できないことは工夫が足りていないと考えて試行錯誤を繰り返して積み重ねていく。そういうスタンスは持っていたほうが人生が楽しくなるとは思います。それも私基準の楽しさなので、他の誰かに押し付けるつもりはありませんが。
