家賃2万円のアパートに暮らしていて、テレビも洗濯機もない生活をしていると、モノが少ないミニマリストのような生活をしているのだと思われがちですが、わたしは意外とたくさんのモノに囲まれて暮らしています。
シューズは数え切れないくらいありますし、寝袋だけで4セットあるかもしれません。コタツもありますし、事務所なので電話もFAXもあります。Macは2台ありますし、ディスプレイも1つ追加しています。
モノが少ない生活を理想とはしているものの、モノがないことで苦労するというのはわたしにとってNGです。
洗濯機がなくて苦労しないのかと思うかもしれませんが、、それはまったく苦痛ではありません。男1人分の洗濯なんて手洗いで10分もあれば終わります。洗濯機よりもよっぽど効率的です。
とはいえ、最終的にはバックパック1つで世界中を旅する旅人になる予定なのに、いまの持ち物の多さは呆れるしかありません。なぜこんなにもモノが増えていくのでしょう?
江戸時代、そこで暮らす人たちの持ち物は、本当に最小限のものでした。家が火事になってもすぐに新しい生活を始めることができます。その時代が素敵だなんてことは言いません。でも、それでも人間は生きることができるという事実から目を背けるわけにはいきません。
そして、たくさんのモノがあれば豊かだという幻想。
台北101に上ったときに、途中でサンゴの加工品が展示販売していたのですが、その加工の素晴らしさにはため息しかでませんでしたが、それを購入することにどんな意味があるのかというところで引っかかってしまいました。
家に珊瑚でできた鳳凰の像がある。「だからどうした」としか思えないのは、資本主義社会においては弊害しかない存在なのかもしれませんが、少なくとも40歳を超えた男が、モノに固執すると言うのは滑稽です。
一方で、わたしは美しさにはこだわります。先日、どうしてもUSBコネクタ付きの電源タップを購入したのですが、デザインのひどいものが多くて、たった1個の商品を選ぶのに30分以上悩みました。
部屋にあって美しくないものはひとつだって置きたくない。それに関しては尋常ではないこだわりがあります。きっと他の人から見れば偏執的に思えるかもしれません。
美しいモノが好きで、美しい女性が好きで、美しい生き方が好き。
ただ、その美しいという基準も少し他の人からはズレているんだろうなと思います。わたしが好きな美しさは豪華絢爛なものではなく、むしろ無に近い美しさです。どこまでも無駄を削ぎ落とした先にある美しさ。
そういう意味でわたしは純粋でまっすぐなものや人に惹かれます。
いつか旅人になったときに、そういうものだけに囲まれて生きることができればいいのですが、まだ簡単には辿り着けそうにない境地です。
現状どこか妥協したモノに囲まれているということは、わたし自身が研ぎ澄まされていないということです。あれもこれも手放しきれないのは、心のどこかに迷いがあるからでしょう。
いかにしてそういうものと決別していくのか。これから数年間のテーマはそこにあります。
たくさんのこだわりを手放したとき、自分の手には何が残っているのか。ちょっと気になりますよね。それをすぐに知ることはないかと思いますが、それほど遠くない未来に分かるような気もします。
最後に自分の手に残っている大切なもの。
それを見つけるためなら、もう少し手放す生活を加速できそうな気がします。
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