無責任な生き方をしているからできることがある:自由だからできること

やりたいことはたくさんあったのに、日々の生活に追われて、何もできないまま時間が過ぎていく。人生というのは大抵そんなもので、気がつけば新しいことに挑戦する気力もなくなってしまう。きっとそういう人がほとんどなんだと思います。

それが人生だと言われれば、まあそんなもんだろうとも思いますが、それがすべてではありません。好きなこと、やりたいことしかやらないという生き方もあり、少なくとも今の私はそういう日々を過ごしています。むしろやりたいことが多過ぎるくらい。

だから、やりたいことがあるのにできないという人の背中を押すというようなことを時々やっています。「そのままだと何も変わらないよ」と言葉にすることはありませんが、新しいことに挑戦するときの最初の一歩の足掛かりを作るわけです。

そこから先に行くかどうかはその人次第。その人の人生とに責任を持つことはできないので深くは関わらないようにはしていますが、背中を押すくらいのことはいくらでもやっていこうかと思っています。多分それも私に与えられた役割のひとつなので。

私自身も新しいことに挑戦するのは好き。むしろ現状維持を嫌っていて、常に変化していないと満足できません。だからランニングにおいても、常に進化できる可能性を探っています。アンテナを張って情報収集をし、どんどん自分の中に取り入れていきます。

ただ、最近は誰でも情報発信できるようになったこともあり、真実でないことを、さも真実であるかのように語る人も増えており、よろしくないなと憂いてみたり。私は基本的にエビデンスに基づく情報しか信じないので、そうでない情報に関して過敏なところがあります。

ただ感覚を無視しているわけでもありません。自分に起こることに関しては、エビデンスなんかよりも自分の感覚を信じます。でも、他人の感覚は信じていません。友だちでも仲間でもない人の感覚を信じられるほど、私も愚かではありません。

別に特定の誰かを否定しているわけではありませんので悪しからず。ただYouTubeで情報発信をしている人の多くに対して、「よくもまぁそんなエビデンスもないことを本当のことのように語るもんだ」と感心してはいますが。

講演会とか練習会みたいな記録に残らないところで何を話そうと、「そんなこと言ったっけ?」で済みますが、動画として残っている、公開しているのに、本当かどうかわからないことを本当のように語るのは勇気がいることです。少なくとも私にその勇気はありません。

私が動画配信をしない最大の理由ですね。動画は発言に責任を取れないわけです。文章は書き直すことが簡単にできます。ごめんなさいをして書き直せばいい。好きなことをして生きる。好きなことしかしない生き方をするには責任なんて負えないわけです。

責任を負うなんて生き方は、真面目な人間にしかできません。でも責任を負わない生き方をしている人にしかできないこともあります。誰かの背中を押すというのもそのひとつ。責任感のある人は、責任を取れないから背中を押すことを躊躇するわけです。

私のような人間でもやれることがある。多様性の時代でよかったと心から思います。生まれるのが20年早かったら、こんな自由には生きられなかったはず。こんな自由な人生にはなってなかったはず。それが良いことか悪いことかはわかりませんが。

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