人間とは嫉妬する生き物です。そして、好き嫌いもあります。だからすべての人とうまくやっていくのは難しい。
大人になるということは、苦手で同じ空間にいたくない人とでも、それを表情に出さずに平静を装うことなのかもしれません。そういう意味ではわたしはまだ大人ではなく、永遠に大人になれない気がします。
わたしは嫌いな人や苦手な人には近づかないようにしています。しているというよりは、自然と疎遠になっていくというのが正解でしょうか。居心地がいい人とだけ面白おかしくやっていければいい。
もちろん、その相手というのは常に移り変わります。
大切だと思っていた人でも、ちょっとしたことがきっかけで歯車が合わなくなることもあります。憎しみや苛立ちは愛情からくるものもありますから。
中学や高校時代は、嫌いな人を露骨に避けていました。無視するというわけではありませんが、こちらが嫌っているのが分かるから相手も関わろうとしない。
もともと仲が良かった友人と、ちょっとしたケンカで1年以上話をしなかったこともありました。
これくらいならよくある話だと思います。でも問題は、わたしがそれなりに影響力があったということです。子どもというのは空気を読むのが意外とうまく、強いほうになびくものです。
わたしがその友人と仲違いしたことを察すると、多くの人が同じようにその友人から離れていきました。
これを「いじめ」と呼ぶかどうかは別として、その友人にしてみれば学校が楽しくない場所になってしまったのかもしれません。そういう意味では「いじめ」になるわけです。
自分のやったことを正当化するつもりはありませんが、じゃあ中学生だったわたしに何かが出来たかというとそうは思いません。わたし自身はその友人に嫌な思いをさせられたから距離を置いただけです。
彼が苦境に立たされても、わたしから歩み寄れるわけがありません。そして、わたしは周りの人を煽ったわけでもありません。ただの子どものケンカであり、それが自分でコントロールできる範疇を超えて思わぬ展開を招いただけで。
アイドルグループでのいじめに関する記事を読んで、そんなことを思い出しました。
自然発生したグループならともかく、よく分からないもの同士が集まって、みんな仲良くなんてことは簡単なことではありませんし、それはきっと誰かの我慢があって成り立ちます。
我慢をなんとも思わないか、耐えなきゃいけない立場に立たされたときに他に逃げ場があればいいのですが、それができないと心は簡単に壊れます。
これは大人の社会でも同じことで、会社の中ですべての人とリスペクトしあえるのが理想ですが、理想と現実が一致するのはまれなことでしょう。わたしたちにはロボットではなく、感情を持った人間なのですから。
わたしは情報発信をしておきながら、常々「影響力のある人間にはなりたくない」と言っています。それはもちろん、中学時代のあの記憶があるからです。後悔をしているのではなく、同じミスを繰り返さないために。
影響力が反対にいじめられる原因になるということも経験しています。
もっともわたしは逃げ場がありましたので、いじめられる側になっても気にすることはありませんでしたが、見事に1人でいることが好きな人間に育ってしまいました。
いじめは良くないなんてことは分かってはいますが、人間が人間である以上はなくならないものと思っています。それを認めないと先に進めない気がするので。
そして、わたしが選んだのは「主張しない」という生き方。自分のやっていること見てもらい「こういうやり方もあるよ」と伝えることはあっても、主張しないし押し付けもしない。
間違っても崇められるような存在にはなってはいけないということ。
主張しないというのは周りに流されるということではありません。周りの意見を尊重すること。そしてそれが難しいならそっと離れていくこと。ただそれだけです。
誰かに主張しなくたって、大事な軸は自分自身で持っていればいいんです。誰かに承認されたくて生きているわけではありませんから。
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