僕は思いっきり背伸びして、すっぱい葡萄に手を伸ばした

メンタリストと呼ばれる男が「人間の性格は靴を見ればわかる」と言っていました。靴は自分の好みで選ぶことができるので、履いている靴に嗜好があらわれるのだとか。嘘か本当かはわかりません。

ただ、自分でチョイスできるものに自分の好みが出てくるのは当然で、その好みというのは自分の歴史においても常に変化していくのでしょう。わたしは地下足袋を好んで履いていた時期もありましたが、どうも最近はしっくりきません。

ファッションも和風なものを選んできましたが、どうも最近はスポーティなものが好んでいる傾向にあります。これは変化したというよりも、かつてそうだった自分を取り戻したような感覚。

人間の好みは、かつて選んだものと選べなかったものによって決まると玉川大学脳科学研究所が発表しています。人間は選んだものを好きになり、選ばなかったものを嫌いになる。

イソップ童話でキツネが採ることのできなかった葡萄は、彼の中で「どうせすっぱい葡萄に違いない、誰が食べてやるものか」という思考を植え付けましら。話はそれで終わりません。そういう経験をしたキツネは葡萄そのものが嫌いになるという話。

これはキツネだけに起きることではなく、わたしたちの日常にも潜んでいる物語です。

わたしはいつの間にか、走って競い合うということを嫌いだと感じるようになっていました。サブスリーを目指すと言っていた自分は過去の話。今はうまく体を使えるようになればいいといい続けています。

走って勝つことに意味なんてないとも。

その考え方はキツネの負け惜しみに似ています。心理学としては認知的不協和というらしい。人間は自分の理想と現実が一致しないときに、どうにかしてその矛盾を解消させようとします。

認知1.わたしは食べることが好き
認知2.適量を超えて食べると太ってしまう

ダイエットを考えたとき、認知1と認知2は矛盾してしまう。これが認知的不協和で、通常はどちらかの認知が書き換えられることになります。理想は認知1を「痩せるために食べない」とすること。

ところがほとんどの人は、認知2を書き換えることになります。「たまには好きなだけ食べてもいい」「食べても太らない人がいる」「運動すれば取り戻せる」書き換え方はいろいろとあります。

いずれにしても、認知1と認知2が不一致した状態で放置できないのが人間。この積み重ねが自分の好みを変えてしまいます。

・ ・ ・

もう少し具体例を挙げてみましょう。

認知1.わたしは新しいiPhoneが欲しい
認知2.新しいiPhoneを購入するお金がない

このような矛盾がある場合、「今回のiPhoneはデザインが悪い」「いまのモデルで十分だ」「Androidならもっと安く買える」と、新しいiPhoneを欲しいという認知を捻じ曲げるわけです。

面白いのは、iPhoneではなくAndroidを買うという選択をした場合、iPhoneを嫌いになり、Androidを好きになるということです。買えなかったことで、好きだったものを嫌いになる。

人生とはこういうことの積み重ねなんだなと。うまくいかないことだらけで、いつも自分の認知を変更しなくてはいけなくなり、さらには好きだったことが嫌いになっていく。大人になるってそういうことなんでしょう。

そして、わたしはマラソンでサブ3を達成できなかったり、トップレベルの選手の走りを目の当たりにすることでショックを受け「誰よりも速く走りたい」という認知を手放して、緩く走る道を選びました。

これが少し前までのわたしです。

でも、少しずつ変化しているのには気づいていました。以前よりも好戦的で挑戦的です。それはランニングに対してだけではなく、生きることそのものに対して挑戦的で、これまでとは違ったアプローチをいろいろと試しています。

たぶんそれは、この1〜2年で追い込むようなトレーニングをするようになったのが原因だと、自分で分析しています。苦しみながら自分のレベルを引き上げる経験が、過去に手放したはずの認知を蘇らせているように感じます。

そんなことが本当にありえるのかは分かりません。もしかしたら認知を変えることができても、人間の本質というのはそう簡単には変わらないのかもしれません。厳しいトレーニングを習慣化したことで、かつての自分が戻ってきました。

そうなってくると、気になるのはここでまた認知的不協和が起きたらどうなるのかということです。日々の練習を積み重ねても、レースで思ったような結果が出なかったり、ケガをしてしまったりしたらどうなるのか。

おそらく1度取り戻した認知は、簡単には再消去できないような気がします。そうなると自分の中で大いなる矛盾を抱えることになります。そうなったときに自分が自分でいられるのか。

もっとも、そういうことは失敗してから考えればいいこと。今はまだ葡萄に手が届いたわけではありません。かつて手が届かなくて、すっぱいと決めつけていた葡萄に、全力で背伸びしながら手を伸ばしたばかり。

今度は諦めない。

いま言えるのはそれだけです。どんなにかっこ悪くても、何度も転んだとしても、周りに笑われても葡萄に手が届くまで背伸びを続けます。きっとそこでしか経験できない何かがあるはずだから。

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