裸足100km世界記録チャレンジを終えた翌日、午前中は気力が湧いてこずダラダラ過ごし、午後からはさすがに仕事にとりかかりました。裸足ランニングクラブの人たちは朝から討論会だったようでなんともパワフル。
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別にここで断る必要はないのですが、ときどき聞かれたり知らない人がいるかもしれないので書いておきますが、わたしは裸足ランニングクラブの関係者ではないですし、裸足は完全に独学です。
わりと長く裸足をやっているように思われていますが、まだ裸足歴は5年程度ですし吉野さんに走り方を習ったことすらありません。なのに勝手にあちこちで発言するからわたしの存在を煙たがっている人もいます。
煙たい理由は発言よりも河童のパフォーマンスな気もしなくもないですが…
わたしが裸足ランニングクラブに入らないし吉野さんに裸足を習わないのにはそれなりの理由がありますが、ここで書いても仕方がないので、知りたい人は今度直接聞いてください…と思ったけどやっぱり書いておきます。
簡単にいえば裸足の流派をたくさん作りたいのです。武術と同じ感じで。
裸足が文化になるためには絶対に必要なのが、数多くの流派です。宗教に触れるのは好みではありませんが、いま生き残っている宗教がなぜ生き残っているかわかりますか?
それは宗派があるからじゃないかとわたしは考えています。宗派は宗教に幅を作ります。
ひとつしか宗派がなければ、そこからはみ出た人たちが行き場を失ってしまいます。裸足ランニングクラブからはみ出た人、合わなかった人たちがそのまま裸足を続けてくれるといいのですが、シューズに戻る人もいます。
そういう人たちの受け皿がどこかに必要だと思うのです。ただ、わたしが受け皿になるつもりはありません。そういう器ではないことは自分でよくわかっています。
ただ、わたしがどこにも属さないことで独立性を保っている人がいるのだと知ってもらえれば、他に受け皿になれる器を持った人が新しい流派を作ってくれるかもしれません。
日本中にいろんな流派の裸足ランナーがいると思うとワクワクしませんか?北辰一刀流とか薩摩示現流みたいな感じで。どの流派がすぐれているか競いあうようになって裸足は本当の文化になると思っています。
それともう一つ。
裸足に関する情報の発信が裸足ランニングクラブやそれに近い人からしか出ないと情報に幅が出ません。「またあの人たちが言っている」というのと「あの人もあの人も言っている」というのでは変わってきます。
裸足ランニングクラブを軸としてそこに属さない人たちがどれだけ裸足に関する情報を発信していくか。これがこれからの日本の裸足界にとってとても重要なことです。
「いや、間違った情報を流されたら迷惑です」と言われるかもしれないけど、何が正しいかはそれこそ流派ですよ。下段の構えと上段の構えどちらが正しいなんて流派で違うわけです。
わたしが言いたいのは、いま裸足を楽しんでいる人たちはそれぞれが自分の流派を作ってそこの師範代になるぐらいの意識を持ってもいいんじゃないかということ。
いやいや自分はそんなに裸足でうまく走れませんし…なんて言わないでください。裸足でうまく走るなんてそんなに大事なことではないですよ。裸足が好きかどうか。それだけです。
裸足が好きなら自分なりの裸足道を極めてみればいいじゃないですか。もちろん最初は誰かに習うことも必要かもしれませんが、少なくともフルマラソンを裸足で2週連続完走するだけなら独学で十分だということはわたしが証明しました。
試行錯誤こそが人生の最大の面白さです。ぜひ自分の流派を興して裸足の師範代を目指してみませんか。
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