意見のぶつかり合いは相手を敬意を払ってこそ成立する

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いま話題になっている日本テレビ系で放送されている「明日、ママがいない」。わたしはほとんどテレビを見ないというか、家にテレビがないので詳しい内容を知らないのですが、なにやらもめているということだけは知っています。それを見た施設で育っている子が自傷したりいじめられたりするという抗議があるのだとか。そしてすべてのスポンサーがCMを自粛するという前代未聞の事態にまで発展しているということまでは把握しています。言い方は悪いけど、どうでもいい話です。どうでもいい話をネタに選んだのはネタが尽きているから…というわけではありません、きっと。

正直泥仕合というか、どう転んでも誰もハッピーにならない未来しか見えません。じゃあ、こういうドラマを最初から放送しなければよかったのかというと、そんなわけはありません。日本人特有の臭いものに蓋をするじゃありませんが、見て見ぬふりをするというのはこれだけインターネットが発達した現代では無理が出てきました。問題はきちんと問題として提起する必要がありますし、それをマスコミがやろうというのはマスコミの本来の姿なのかもしれません。

じゃあなぜ、今回のような問題になったか。簡単にいえばすべての人を救うことはできないということです。なぜだかわかりませんが、あれもこれもうまくいくようにしたいと思う人が世の中には大勢います。わたしの身近な人がそういう状況になったら「あれもこれもは無理だから」と伝えるようにしています。わたしは基本的に八方美人な性格ですが、それでも軸をブレないように心がけているとどうしても全員にいい顔はできないことはわかっています。それなのに世の中全体としては、すべての人がハッピーになれる方向を模索しているように思えるのです。

すごくわかりやすいすべての人にとって良い解がないものとして「原発」があります。これはもう、100点満点の解答は絶対にありえません。仮にもう一度原発で事故があれば確実に原発ゼロに向かうのでしょうが、現段階ではどういう理屈なのか再稼働があたり前な流れになり、原発ゼロを唱える人たちは異端な人というイメージになり、その先はほぼ感情論になりつつあります。原発ゼロも再稼働もどちらにも言いぶんがあり、決して相容れない。世の中にはそういう問題が無数にあります。

インターネット以前とインターネット以後で世の中のあり方が完全に変わってきました。いや、もしかしたらスマホ以前とスマホ以後かもしれません。そういうのは頭のいい人が分析してくれればいいのですが、とにかく現代は「主流」というものがなくなりつつあるようです。いたるところで意見の対立が目立つようになってきました。その事自体はすごくいいことだと思うのですが、日本人は意見の対立が下手というか慣れていないので、自分の考え以外はすべて間違いだとなりがちです。

本当は自分以外の考えの人を敬意を払う気持ちがあって初めて意見の対立が成立するのですが、少なくとも日本では自分の考え方に反する人を見下す方向にあります。なぜ相手の意見を尊重できないのか。これはこれからのわたしたちに与えられた課題のひとつです。まずは他人と自分は違うのだという当たり前のことを受け入れる。そこがスタートかもしれません。人それぞれ考え方や思想が違ってあたり前で、自分の主張も他人の主張によって変化することもある。そういう前に進む感じの意見の対立を定着させたい。「明日、ママがいない」の騒動はそれとは真逆にしか進んでいなように感じます。

この国は成熟した社会にはまだまだ遠いということでしょうか。

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