
大阪に未練はなかった。
小学校低学年までは神戸の山奥で育ち、自分が根っからの大阪人ではないというコンプレックスがどこかにあったのかもしれない。大阪で育った人間にしては珍しく、東京へのあこがれが強かったのもある。
初めて東京に行ったとき、モノレールから見たビルの中で働く人たちの姿は今でも鮮明に覚えている。
「いつかここで働きたい」
残念ながらその夢は叶っていないない。憧れの東京は近いようで遠く、わたしは26年間もその手前の神奈川で足踏みをしている。
高校時代のわたしはくすぶっていた。友人と呼べる仲間はいたが、誰かと積極的につるむということはしていない。サッカー部に所属していたが、練習試合の移動などは1人。仲が悪かったわけではなく、同じ色に染まりたくなかっただけ。
サッカーは面白かったし、それで食べていくんだと決めていた。もちろん、その夢も叶っていない。わたしの人生で思い通りにいったことなんて1つもない。そうい人生が嫌なわけではなく、生きるとはそういうことだと今なら分かる。
好きだった子には彼氏がいた。
それでもときどき一緒に帰る時間がたまらなく楽しかった。
お互いに自転車なのに、一緒にいられる時間が少しでも長くなるように押しながら歩いて帰る。迷惑だったかな?そう思うこともあった。でも、学校の駐輪場で一緒になることを期待している自分もいた。
上京するともう会えなくなる。未練というほどではないが、大阪を離れるときに唯一残念だったことだ。
卒業式の前日、駅のバスロータリーでの立ち話、その間にクリーム色のバスがどれだけ出発しただろう。「じゃあね」を言いたくなくて、ずっと言葉を重ねていた。
青春だったなと思う。
この時期になると、どうしてもそのときの景色を思い出す。
高校時代は華やかではなかったし、あの時代が良かったなんて1ミリも思わない。
もちろん仲間との思い出だってある。クラスメイトとオープン参加のサッカー大会に出て、サッカー部の連合チームに12-0で大敗したのも悪くなかった。
高校3年のバレンタインデー、わたしが不在時にかかってきた電話。誰からだったのかはわからない。あの頃に戻ったら、バレンタインデーに家にいようとは思うが、きっと忘れて外出するのだろう。
高校1年のときに退学を考えた学校なのに、3学期になって授業がなくなってからは毎日通っていた。たった1人、閑散とした教室で黙々と問題を解いていく。残された時間が両手からこぼれ落ちないように気をつけながら。
同級生の女子と2人きり、それぞれ自分の机で勉強した日があった。特別に仲が良かったわけではない。不思議なもので、その子とは今でも年賀状を送り合っている。3児の母になり、数年前から横浜で暮らしている。
会えるといいなとは思うけど、会いに行こうとは思わない。玉手箱には開けるべきタイミングがあるから。
もうあの頃の自分じゃない。
26年という時の流れのなかで、墓場まで持っていかなくてはいけないことだって抱えてるし、大切だと思える人も少しだけ増えている。
それも全部、あの日から繋がっている。
上京したときに新幹線を降りた駅が新横浜だったか、小田原だったかすら覚えていない。でも最寄り駅から新居までの間で咲いていた桜は覚えている。
数日後に、その桜のそばにあるコンビニでアルバイトを始めた。
大学の入学式ではなく、そのコンビニで働き始めたときに何かが始まったような気がした。その上京物語はまだ続いている。
ただ残りのページがそう多くないことはわかっている。だけどもう少しだけ。もう少しだけ「じゃあね」の前に言葉を重ねたい。