仕事は自分を表現するための手段のひとつであるが、すべてではない

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昨日は5時起床で大阪出張に向かい、深夜0時を回って家に戻ってきた。こんな働き方をしても残業代プラス3500円しかもらえないわけです。往復の7時間は移動時間ということで無給です。サラリーマンって本当に大変だなと思わずにはいられません。会社の悪口を言いたいのではなくて、会社というシステムはいろいろと無理があるもんだなと感じたというお話です。会社は組織である以上、ある一定のルールが必要になります。すべての社員を幸福にすることは出来ませんし、誰にでも公平にというわけにはいかないのです。

ちなみに昨日の出張は自分が機構設計したものの納品だったので、仕事が遅くなるぶんにはまったく気にしていません。普段、親の敵のように残業を毛嫌いしていますが、お客さんに自分の設計したものを届けたり、設置組立することに関して言えば徹夜してでもお客さんの要望に応えるつもりです。それは仕事云々という次元の話ではなく、頼まれたことに対して期待値100%以上で応えて喜んでもらうことが嬉しいから。むしろそのためだけに働いているといっても過言ではありません。

もし宝くじで3億円当たったとしてもわたしはそのためだけに働き続けるでしょう。逆を言えば、誰かに喜んでもらえる仕事であれば、どんな仕事でもかまいません。会社というものにこだわりもありませんし。大企業とかそういう枠組みに対してまったく興味がありません。わたしが憧れるとしたら自分という名刺を背負って生きている人です。

しかし、やはり基本は残業が嫌いというか、残業の使い方っておかしくないかと思うのです。極力残業をしないようになってから、上司や同僚に「もっとできる」みたいなニュアンスのことを言われています。この言葉が「定時時間内でももっと効率的にいい仕事ができる」というのならいいのですが、間違いなく「もっと残業して仕事量を増やせる」という意味です。言いたいことの意味はわかります。若いころは100時間以上の残業を繰り返して今の自分にまで到達したわけですから。

でも残業って仕事量を増やすためのキャパじゃないはずです。いま持っている仕事が溢れるのを受けるためのもの。だから仕事が溢れそうならその仕事は受けない。それがわたしのスタンスです。それは理想だけどそんなことはできないと言う人のほうが多いと思います。残業する側もさせる側も。でもわたしの感覚からすれば出来ないという方が幻想なんです。どんどん仕事を増やすというのは高度経済成長を支えたやり方ですが、むしろいまは経営の圧迫でしかありません。

経営者は社員が残業をして得られる会社の利益と支払われる費用をよく考えるべきで、もしそれでプラスになるというなら社員を増やせばいい。仕事量の総和が会社に収益につながるならなぜ経営の悪化した企業がリストラするのでしょうか。

とはいえ、わたしはかなり勝手気ままに働かせてもらっています。もちろんだいぶ経営陣には煙たがられているのは理解しています。それでも、自分がなぜ働くか、どう生きたいのかが明確になればなるほど仕事ばかりしているわけにはいかないと感じるのです。仕事は収入を得るものではありますが、自分を表現するための手段のひとつであり、だからこそ他の自己表現手段も大事にしたい。欲張りなんです、基本的に。

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