北京マラソンを走り終え、万里の長城マラソン代表の朱さんと打ち上げをしているときに質問された。
「中国のマラソンと日本のマラソンは違いましたか?」
実はこのことについて走っているときになんとも言えない違和感のようなものを感じて走っていた。日本のマラソンのようにみんな一生懸命ベストを尽くしてゴールを目指している。一見すると中国人ランナーも日本人ランナーも大して変わらない。ところがどうもしっくりこない感じがあり、そのことを朱さんに告げたときにわたしはその違和感の正体に気づいた。
日本人ランナーと中国人ランナーとの最大の違い。それは『協調』にあるようにわたしは感じている。日本のマラソン大会では走っている周りのランナーとの一体感がある。それぞれがライバルでありながらお互いにゴールを目指す仲間だという感覚がある。だからときにお互い励まし合ったり、声をかけてともにゴールを目指す。おそらく日本人はそのことを意識していないだろう。もちろんわたしも協調して走ることを意識しているわけではない。それでも自然と周りに合わせて走るのが日本人ランナーの特徴ではないだろうか。
一方、中国人ランナーはそれぞれのランナーが孤立しているように感じる。
ランナー同士がお互いに関与することなく各自がベストを尽くしてゴールを目指す。気配りのようなことはほとんどない。例えば給水ポイントでは自分のタイミングで水の入ったコップを取りに行く。それぞれが自分のタイミングで行うから給水所で無駄な渋滞が起こったりする。ランナー同士の接触も当たり前にある。ただ、ぶつかった方もぶつかられた方も大して気にしていない。他人にぶつかっても謝ることもしない不思議な光景がそこにあるのだ。
例えに書いたのはあくまでも一例にすぎない。きっといたるところにそういう国民性のようなものがマラソン大会全体の雰囲気として現れているのではないかとわたしは推測している。中国人は個人主義と表現されることが多い。様々な歴史の過程で彼らは個人を大切するようになり、あらゆるものの中心は個人という考え方が根付いている。それがマラソン大会全体の雰囲気となっているのだ。
それは良い悪いではなく単純に国民性の違い、文化の違いでしかない。おそらく米国のマラソン大会はまた違った雰囲気になるのだと思う。フランスの大会、ドイツの大会、どこの国で開催されても、数万人も集まると国民性の違いが出てくる。あたり前のことだが新鮮な発見でもある。
中国人のランナーが日本のマラソンを走ったときの感想が「親切で優しい、あたたかいマラソン大会だった」と言った人ががいるそうだ。わたしが北京で感じたことと逆のことを感じたのだろう。その中国人は日本のマラソンの一体感を走りながら感じたに違いない。繰り返しになるが、どっちがよいという話ではない。ただ、海外から日本に来たランナーが日本のマラソンを、協調して走る楽しさを感じてもらえたならそれはやはり嬉しい。
日本のマラソン大会は立派な観光資源ではないだろうか。もっと多くのランナーが走ってくれることを願っている。そしてわたし自身はもっと多くの国でマラソンを走ってみたい。世界中のマラソン大会を自分の肌で感じて、自分の言葉で紹介していきたい。そのときに日本のマラソンとの違いはどこにあるのか、その国の国民性を感じられるようにしっかりアンテナを張っていくつもりだ。
さて次はどの国に行こうか。
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