『KANO 1931 海の向こうの甲子園』台湾が日本だった時代の話

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非難を恐れずに言うならばわたしはこの時代が好きだ。明治維新以降から大東亜戦争に向かうまでの近代と呼ばれる時代。日本だけでなく中国も激動の時代で、欧米の文化がアジアに流れ込み、国としてはともかくそこに生きる人たちに活気がみなぎっていた時代と感じている。

少し前に観た『バンクーバーの朝日』はこれまでアジアだけにしか目を向けていなかったわたしに、移民として世界に出ていった日本人の存在を気づかせてくれた。そして、今日観た『KANO 1931 海の向こうの甲子園』は台湾人の目から見た日本人とともに暮らした時代について学ぶことが出来た。

台湾に何度も行っている人でも、日本と台湾の関係をあまり知らない人が大勢いる。日本が台湾を統治していたことすら知らず、その期間が50年という長い期間だったことはなおさら知られていない。これは日本の教育があの戦争について教えることを避けてきたからかもしれない。

わたしは侵略戦争を美化するつもりはないが、志を持って中国の近代化に力を尽くした日本人が大勢いた事実や、近隣諸国でともに行きた日本人について知っておくべきだと思うのだ。KANOこと嘉義農林学校が甲子園に出たことを今回の映画で知った日本人はわたしを含め少なくないだろう。そして嘉義農林学校を率いた監督が日本人だということも。

あの時代、わたしたちが思っている以上に民族間の諍いはなく、むしろともに暮らすことがあたり前だったのではないかと感じている。満州国も理念は五族協和を掲げている。決して日本人が大きな顔をしていたわけではない。信念としてアジアの国々を欧米諸国から守りたいと思う人が暮らしていた。

『KANO 1931 海の向こうの甲子園』を観ていると、なぜ台湾の人たちが日本が好きで、日本を大切にしてくれるのかがよくわかる。特に台湾南部は元から暮らしていた部族ごとに言葉がお互いまったく通じないレベルで違い、漢人と台湾人、台湾人と台湾人、そして台湾人と日本人を繋ぐ言語が日本語だったのだ。

そして、庶民レベルでは日本人と中国人、台湾人が上下なくともに暮らしていたことが伝わってくる。もちろん時間とともに美化された部分もあるのだろう。それを歪めたのは戦争であり、権力者たちの争いだ。だから日本人が悪くないとか悪いとか言うつもりはない。ただ、決して日本人が悪いことばかりしてきたわけではないことは知っておきたい。

『バンクーバーの朝日』と『KANO 1931 海の向こうの甲子園』という映画が続いたのは決して偶然ではない。この世から当時を知る人たちがいなくなりつつある。そうなる前に歴史をきちんと伝えたいという想いがあったに違いない。わたしたちは当時を知らなくともその伝えたい想いを受け取る義務がある。

震災と同じように決して風化させてはいけない歴史がある。伝えていかなくてはいけない。次の世代、その次の世代へと。忘れてはいけないし、目を背けてもいけない。わたしはその歴史という襷を繋いでいく一員であり続けたい。

ちなみにこの映画に八田先生という人物が出てくるのだが、おそらく映画を見たほとんどの日本人が違和感を感じるだろう。それは誰も(とくに若い人は)八田與一を知らないからだ。わたしもつい最近まで知らなかった。八田先生についてはいずれこのブログで書くが、これから映画を観る人は少なくとも八田與一については予習しておいてほしい。

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