ウルトラマラソンを裸足で走り切ることはできるのか。その問に対してのわたしの回答があるとすれば「出来ない理由がない」だった。実際すでに数名の裸足ランナーが100kmの距離を裸足で走りきっている。それなのにわたしは完走できなかった。そこにあったのは紛れもなく「慢心」だろう。
明らかな練習不足なのだが、それでも勝手になんとかなると思い込んでいた。そうやってフルマラソンも裸足で走ってきたし、練習量が少ないなりに結果も出してきた。結局のところわたしは自分の手の届く安全圏の中で頑張れた気になっていたわけだ。
ウルトラマラソンというのは十分な練習なしに走りきれるものではない。どれぐらいが十分かというのは個人差があるが、そこに裸足を追加しただけで、圧倒的に難しさは上がってしまう。100km走り切るだけの力と、100km裸足で地面と折り合いをつける力が必要になる。
難しいが、挑戦しなければ見えないこともある。安全圏の中で無難に生きるという生き方ももちろんあるだろう。わたしはそういう生き方で満足できない。だから人が見て馬鹿だと思うようなことをいくつも積み重ねている。いつだってワクワクしていたいのだ。
ただ、安全圏の外に出たいならば大いなる覚悟と、それなりの準備が必要になる。図面の描き方もわからない人が機械設計の仕事をすることができない。包丁の使い方をわからない人が料理人になることもできない。反復の練習によって身につけたことだけが安全圏の外では力となる。
どうすればいいか。もう言わなくてもいいだろうがあえて言おう。練習を積み重ねるのだ。人が休んでいる間も、寝る間も惜しんで努力する。いや、努力という言葉は適切ではない。何かを成し遂げようと思うならば、全身全霊でそこに向かっていく。それが当たり前なのだ。
いまの自分を越えていくことは、決して簡単な道ではない。そもそも越えていく必要すらないのかもしれない。プロ野球のナイターをビール片手にテレビで観戦していた父の姿を否定することはわたし自身を否定することにもなる。繰り返すが、そういう生き方もきっと悪いものではないのだ。
それでもあえて一歩踏み出したいのなら、やるしかない。この人生は誰のものでもない。わたしはわたし自身のため生きている。誰かに強制的に走らされているわけでもない。ましては裸足で走るなんてわたしが好き好んで勝手にやっているのだ。
きちんとした準備をしなければいけない。後悔を繰り返していいほど若くもないのだ。最高の準備もし、それでも目標に届かなかったらそれはそれでかまわない。そこはまだ成功へのプロセスの過程でしかなかったということだ。また練習を積み重ねるだけのこと。
人生はそうやって面白くなっていくのだから。
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