少し遅い時間の電車内、妊婦さんとその旦那さんが電車に乗っていた。妊婦さんは立っているのが辛いようだったが、あいにく席は埋まっているし、誰も妊婦であることに気づいていない。
この国で暮らす人たちは妊婦さんに気を使うことも出来ないのか!……などと言うつもりはない。わたしが疑問に感じたのは、なぜその夫婦は乗り込む電車を1本ずらして確実に座れる選択をしなかったのだろうかということ。
その夫婦が電車に乗ったのは始発駅からで、10分待てば席に座ることができるのに立って移動することを選んだ。判断は人それぞれだからわたしがとやかく言うべきではないのかもしれないが、その夫婦の思考は多分こうだろう。
「きつくなったら座席を譲ってもらえばいい」
ところが現実は誰も席を譲ることなく、妊婦さんの「わたしきついの」アピールだけが空回していた。大前提として妊婦さんに席を譲ることは当然なのだが、譲られる側がアピールするのもどうだろうか。
この国では弱者が弱者であることをアピールし、保護してもらうのが当然の権利だと思っている人が少なくない。自己主張ばかりするお年寄りもそうだし、経済的弱者も自分たちは守られるべきだと声を上げる。
弱者を守るのはあたり前のこと。でも弱者が「守れ」と主張することが絶対に間違っている。
まず自分の身を自分で守るための最善を尽くす。最初から「守れ」というのは甘えでしかない。甘えが成長を妨げることは長年支援され続けているにもかかわらず貧困から抜け出せないアフリカ諸国を見ていればわかるだろう。
誰かに何かをしてもらうとき「してもらうのが当然」という発想は絶対に避けなければいけない。それが恋人や家族であっても変わらない。
それぞれがベストを尽くし、そのうえで支えあう社会は素晴らしい。自分がやるべきこともせずに、ただもたれあってるだけではないかよく考えてほしい。権利は何もしない者には与えられない。
コメント