フリーになってやりたかったこと。平日の映画の日に昼間っから映画を観に行くこと。会社を辞めて1年以上が経過して、ようやく実現しました。
選んだ映画は「この世界の片隅に」。大ヒット映画「君の名は」と迷いましたが、最近涙を流してないなぁという想いで「この世界の片隅に」を選びました。
泣くために映画を選ぶなんて自分でもどうかしてると思いますが、生きるために泣くことは大事だなことだと、わたしは考えています。無理にでも涙を流すことで知らないうちに溜め込んでいた感情を開放する。そういうことも生きるためのひとつの技術かと。
舞台は昭和20年の呉。これだけでもうどんな映画なのかわかると思います。若い人や東日本の人は分からないかもしれませんが。わたしと同年代より前に西日本で育ったにとって人は、「言うまでもない」舞台です。
映画の中で使われている広島弁が島根で暮らすわたしの祖父や祖母が使う言葉に近い感じを受け、それがまたわたしの胸をぐっと掴みます。
昭和20年代の前半のことを、わたしたちは想像でしか知りません。自由恋愛が自由でなかった時代。自由に生きるという概念そのものがなかった時代。
でもその時代を生きてきた人たちは、きっと不自由だなんて思わずに生きていました。現代からすれば、鳥かごの中に閉じ込められているような生き方でも、当時の人たちはその鳥かごの中でただあたり前に生きています。
それが自分の祖父母が若かった時代、ほんの少し前の時代です。
今よりも何もなく、貧しいはずの時代ですが、わたしはこういう映画を見るときにいつも豊かさってなんだろうなと思わずにはいられません。最新のトレンドを取り入れた服を着て、スマホでたくさんの人とつながり、話題のお店でワイワイ飲み食いをする。
すごく豊かです。昭和20年代のあの時代からは想像もできないような未来。
そこに虚しさがあるなんてことはいいません。そこには確かに豊かさがあります。でも「この世界の片隅に」のような映画を観たときに感じる、あの時代を生きるということ。生きるだけで精いっぱいだった時代を生きるということ。そこに現代にはない豊かさを感じます。
わたしは戦争なんて反対ですし、戦争をする意味すら分かりませんが、あの終戦までの時代の話を聞くことが好きです。それが台湾であったり、満州であったあり、場所は違えどあの時代を生きた人の話を聞くと、知らないあいだに心のメーターがフル充電を示します。
ただみんなで笑えるだけで幸せに感じるられること。
もちろん、その時代に生きた人たちは二度とあんな時代に戻りたくないのだろうと思います。思い出したくもない人もいるでしょう。きれいごとばかりではなく、もっと人間くさいドロドロした面もあったはずです。
でもそういうものがむき出しにあった時代だからこそ、感じられるものが間違いなくあります。ないものねだりですが、わたしたちがどうやっても手に入れることができないなにかが。
なんでもないことを特別に思える時代に生きた人たちがいて、そして命をつないでいまのわたしたちがいます。あれからまだ100年も経っていないのに時代は大きく変わりました。
「この世界の片隅に」のような映画があることで、昭和20年代のあの時間のことが、きちんと受け継がれていきます。この映画には「100年先も伝えたい」というテーマがありますが、何百年先も伝えて欲しい日本人の姿がそこにはありました。
こういう気持ちになれる小説を書けるようになるのがわたしのひとつの目標です。そこになにもないように思えるのに読み終えたときに、心が満たされていたり、涙が自然とこぼれ落ちるような小説。
そのためには、なんでもないことを特別に想いながら生きる。そういう生き方を、そういう感性を大切にしなくてはいけません。自分ならできる。そう信じて今日という1日を、明日という1日を大切に過ごします。
好き好きあるかと思いますが、「この世界の片隅に」とてもいい映画です。
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