マラソンを伝えること、マラソンというドラマを伝えること

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マラソンを走ることができるというのは豊かさの証なのでしょう。フルマラソンを走るだけで2時間から7時間もの時間を必要とします。その時間のために何十時間も走ります。

毎日15時間以上、土日も関係なくも働いている人はとてもマラソンどころではありません。毎日何時間もかけて水汲みに行かなければいけない暮らしをしている人にしてみれば生活にランニングを取り入れるという発想すらないでしょう。

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走ることへの想いはそれぞれに違う

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生活はギリギリとはいえ、こうやって走れている、海外にまで走りに行ける自分はどれだけ恵まれているのでしょう。

そしてその「走る」ことを伝えることを仕事の一部にしています。

豊かでなければ走ることもできないけれども、日本では「走るのが嫌い」だから走らないという人までいます。好きなこと、やりたいことの選択の幅の広さがランニングに対して奥行きを作ります。

ゆっくり気持よく走りたいランナーもいれば、上司に無理やり走らされるランナー、そしてレースの駆け引きを楽しむランナー。それぞれのランニングへの想いは違います。

簡単にランナーという枠で考えてしまいがちですが、1万人集まるマラソン大会には1万人分の想いがあり、ドラマがあります。

マラソン大会というひとつの通過点

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わたしの周りにも世界のクレイジーな大会を巡っているランナーもいれば、「明日から本気出す!」の明日がまったくやってこないランナーもいます。ダイエットのために走り始めたのに「ご飯が美味しくてー」と太るランナーも。

でもそういう人たちでも一緒になって走ることができる。同じ方向を向いて同じゴールを目指して走ることが出来る。わたしがマラソン大会が好きな理由がそこにあります。

マラソン大会のゴールは決してランニング人生のゴールではなく、ただの通過点です。

多くのランナーがそれぞれのランニング人生を駆け抜け、その途中でたまたま同じ場所、同じゴールを目指して一緒に走る。そしてゴールをすればその後はまたそれぞれのランニング人生に戻っていきます。

マラソン大会にはドラマが詰まっている

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何らかの理由で走ることを止めてしまう人たちもいます。走りたくても走れない人も。そんな人たちの存在もまたマラソンを魅力的にしています。

走れないからボランティアをする人もいれば、「俺、こう見えてホノルルマラソン走ってるんだぜ、ずいぶん昔だけど」と居酒屋でくだを巻く鬱陶しい元ランナー。

それぞれにドラマがあります。

マラソン大会にはその場に立てなかった人たちも含めてドラマが詰まっています。そしてマラソン大会に参加することでそれぞれのドラマにエキストラとして参加できるわけです。

もちろん自分というドラマの中では主役です・・・たぶん。

マラソンをドラマとして伝えたい

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トップランナーだけが注目されるマラソンですが、その後ろにはもっと多くのランナーが控えています。

目立つことのないどこにでもいるような市民ランナー。そういう人たちの走るマラソンをわたしは伝えていきたい。マラソンの中にある喜びや苦しみ、そしてそれぞれの強さや弱さを書いていきたい。

幸運にもわたしはマラソンに出会い、マラソンを走ることができています。

そしてさらに幸運にも、小さくてもこうしてマラソンを伝えることができることができる立場にあります。

きっとそれがわたしにできること。

それぞれのランニング人生を駆け抜けているランナーたちが次の一歩を踏み出したくなる。そんな言葉を紡ぎ、たった一人に届けていく。

きっとそれがわたしのすべきこと。

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