柳の下で二匹目のドジョウを取れないのは努力が足りないのか

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今年の24時間テレビは24時間マラソンではなく24時間トライアスロンだとか。うまくやったなという思いと、そこまでして続ける意味はあるのだろうかという思いが入り混じっています。

24時間マラソンから24時間トライアスロンに変わることで、番組が放送される前の批判を避けることが出来ます。誰も詳細をわからないわけですから、批判のしようがありません。

またこれまでよりも、ハードなイメージを持たせることができ、さらに目新しさもあるため注目されるのは間違いありません。個人的にはブログ記事のネタくらいにしか考えていませんが。

最近よく考えるのは、なんで頑張ることや目標に向かうことばかり称賛されるのだろうということです。もちろん目標に向かって頑張っている人は美しいし、わたしは無条件に応援します。

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ただ、その裏にある努力の押しつけに対しては「バカなことするもんじゃない」と言いたくなります。

自分の置かれた状況で踏ん張って前に進むのと、柳のようにゆらりゆらりと日々を過ごしていく。このどちらが優れているなんてことは誰にも分かりませんし、そもそも比べること自体がナンセンスです。

みんながみんな樹齢1000年の大木のように、どっしりする必要はありません。ちょっと強い風が吹いたくらいで頼りなく揺れてしまう木のように生きたって何も問題ないはずです。

努力することが素晴らしい。頑張って結果を出すことを褒め称える。それは素晴らしくてもそこから派生するものが必ずしも素晴らしいとは限らないことは、多くの人がこの1ヶ月で嫌というほど見聞きしたものではないでしょうか。

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もちろんあれば、努力の方向を間違えたものではありますが、勝つことへのこだわりが強くなった結果であることには違いありません。この国では勝ち方よりも、負け方の美学をもう少し広めていったほうがいいような気がします。

負け方といいう言葉が嫌なら、引き際の美学とでも言えばいいでしょうか。

努力を重ねて結果を出すことばかりが正しいとされがちですが、本当にそれしか道はないのでしょうか?学校の体育の授業でマラソンを走るとき、全力を出してゴールを目指さないのは本当によくないことなのでしょうか?

頑張ることを強要された結果、日本人の多くが「走るのは嫌い」というわけです。そして、みんな運動不足になって医療費ばかりかかるような国になっています。

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速く走ろうと遅く走ろうと自由で、大事なのはなぜ自分がそうしているのかをきちんと語れるということです。テストで0点を取っても、その理由を自分で語れるならいいのではないかと、わたしは思います。

自分なりに理由があって0点になるのであれば、教科書を丸暗記して100点を取るよりも魅力的だとわたしは思います(それは価値観ですから、人それぞれに考え方が違うとは思いますが)。

「そんなこと言いながら、お前はコツコツ積み重ねるタイプじゃないか」と言われそうですが、わたしはそれが好きだからやっているだけのことです。

自分の選んだ方法、進んでいる道が必ずしも他の人に適しているわけではない。ごくごく当然のことでなのに、世の中では成功者のプロセスをなぞるようなことを推奨します。

そして、そのプロセスの中で成功するための努力を押し付ける。

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もっとも押し付けている側はいいことを教えているつもりなのでしょうから、基本的には善意なわけです。そして「あなたのためにやっている」と主張します。こうなってくると絡まった糸をほどくことはできません。

教育を語るつもりはありませんが、いまわたしたちに求められているのは「自分で考える力」もしくは「自分で考える習慣」です。あの人が言ってたから間違いない。あの人はそれで成功したから自分も同じことをする。

いったい誰の人生を生きているのでしょう。

この国には「柳の下の二匹目のドジョウを狙う」という素敵な言葉があるんですが、今の時代は「柳の下で二匹目のドジョウを取れないのは努力が足りない」なんて言われるんでしょうね。

くわばらくわばら


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