「沈黙-サイレンス-」が露わにした日本人の本質と宗教観

  • 2017.02.02
  • (更新日:2019.11.13)
  • LIFE
「沈黙-サイレンス-」が露わにした日本人の本質と宗教観

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この映画はきっと日本人には正当な評価はされないだろうなと思いながら、「沈黙-サイレンス-」を観ていました。そして同時に感じたことは、わたしにはこの映画を受け止められるだけの器がないということ。

歴史についての知識も不足していますし、宗教に対する知識の無さもこの映画を観ていると痛感します。

創り手のメッセージがそこにあるのに、自分の力不足でそのメッセージを正しく受け取ることができていないもどかしさ。そのメッセージの重さだけを感じて映画館をあとにしました。

この映画はネタバレになるようなこともなく、ただ淡々とストーリーが進んでいきます。

恩師である宣教師フェレイラが、キリスト教を棄教して日本人として暮らしている。そう聞いた2人のポルトガル人宣教師がフェレイラに会うために日本に密航し、そこで弾圧を受けている切支丹と向き合うことになるというのが、大きなあらすじです。

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このストーリーを理解するには、当時の切支丹がどのような扱いを受けていたか、江戸幕府とキリスト教の関係や、日本人にどうやってキリスト教が浸透していったかなどの時代背景を知っておく必要があります。

学校で習った「隠れキリシタン」や「踏み絵」という言葉が、いかに深みのないただの単語だったのかということが映画を観ていてよくわかります。

切支丹は迫害され、キリスト教信者であるかどうかの判断に踏み絵を使う。ただの絵だから踏んでしまえばいい。江戸時代の人たちにはそう思えない、神様に対する恐れがありました。

その考え方はキリスト教的なものではなく、日本人の八百万の神につながる信仰心によるものです。キリストの画が描かれた踏み絵には神様の霊が宿っている。だから神様を信じるなら踏むことができない。

よく出来たシステムです。ただしキリスト教的な考え方をすると、踏み絵はただの絵であり、そこに神様が宿っていることはありません。神様はただそばにいて、苦しみを共に感じてくれるだけ。

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切支丹の篤い信仰心は捻じ曲げられた信仰心で、本来のキリスト教のあり方とはずれています。

キリスト教は偶像崇拝が禁じられていますが、日本人にとっての神様は偶像崇拝とは違いますが、神様はかたちあるものに宿るという考え方が当時の日本人にとってあたり前の考え方だったのでしょう。

このあたりの日本におけるキリスト教の広まり方などを学んでいなければ、「沈黙-サイレンス-」で伝えられているメッセージの半分も理解できないような気がします。

そして宣教師たち、欧米人の持つ宗教観も把握しておかなければ、なぜ宣教師のロドリゴが苦しむのかをほんとうの意味では理解できません。

「沈黙-サイレンス-」は観る人を選ぶ映画です。おそらくキリスト教圏内ではとても評価される映画ですが、キリスト教が日本になじまなかったように、この映画も日本になじまない気がします。

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歴史を知らず、宗教もわからないのでは、スクリーンに映される表面だけしか見えてこない。ただの退屈な映画という評価を受ける可能性もあります。

そして何よりもこの映画は多くの日本人が複雑な気持ちにさせられる映画です。日本人は勧善懲悪を好み、清く正しい日本人というものが日本人のあるべき姿だと思いこんでいます。

少し前のブログで「ずるいことをするのが日本人の国民性なのかもしれません」と書いたところ、その文に違和感があるというコメントをもらいました。

わたしも勧善懲悪が好きで、日本人は清く正しいものだという理想を持ってはいるものの、勧善懲悪の善だけが日本人ではなく、悪も日本人で、もっと言えば周りで見て見ぬふりをしている人も日本人です。

「ずるい」という表現がうまく伝わらなかったのかもしれませんが、もっと厳しい言葉で言えば「日本人は陰湿」と表現すれば伝わりやすいかと思います。

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この国で教育を受けた人であれば、イジメとまったく無関係な学校生活を送った人なんてほぼいないのではないでしょうか。イジメに関与しなくても勧善になれずに見て見ぬふりをする。最近では自分がイジメられる側に回りたくないからいじめる側に回る。そういう話もよく耳にします。

イジメはダメだという声だけが聞こえますが、少なくともこの国からイジメがなくなる気配はありません。それはすべて日本人の陰湿な部分が現れている結果ではないでしょうか。

そして「沈黙-サイレンス-」では、日本人のそのような陰湿なところが露わにされています。真面目でまっすぐな役柄の人もいますが、基本的には日本人のズルさや陰湿さがこれでもかと思うくらい詰められています。

それを冷静に直視できる日本人がどれくらいいるのでしょう。

もちろん陰湿だから悪者というわけではなく、例えば切支丹を弾圧している井上筑後守には彼なりの正義があり、それを貫いているため、見る方向によっては悪にも善にもなりうる存在です。

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「沈黙-サイレンス-」には悪だの正義だのそういう分かりやすい構図がありません。誰もがときに正ししく、ときに理解できない判断を行います。少しでも時代背景とキリスト教についてわかっていれば、もっと深くまで感じることができたのにと思ってもあとの祭りです。

深くまで感じきれずに映画の感想をまとめているので、我ながらグダグダな文章になっているのがわかります。

おそらくこの映画を理解出来るようになるには、まだまだわたしの人間としての器が小さすぎるのでしょう。10年後、20年後に観直したときに、もっと深く理解できるように人としてもっと成長しておこう。そう思うことで精一杯です。

これまでは神も仏も信じないという生き方をしてきましたが、きっとこれは自分の神様は信じてなくても、誰かの信じている神様については信じなさいという暗示。そのために誰かの信じている神様について学ぶべきタイミングなのかもしれません。

そして切支丹とは何だったのか、教科書の向こう側の出来事も少しずつ学んでいこうと思います。じっくりゆっくり時間をかけて、自分の器を大きくしていかなくてはいけません。

「全然伝わらないよ」という人は、ぜひ「沈黙-サイレンス-」を観に行って貰えればと思います。わたしが伝えきれなかったことの理由を分かってもらえるかもしれません。素晴らしい映画ですが諸手を挙げて「素晴らしい」と言い切れない自分。さてどうしたものでしょう。


沈黙
著者:遠藤 周作
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