Great Wall of China Marathon 〜始まりの日〜

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2011年4月29日。その男は4度目の中国とは思えないほどナーバスな雰囲気で、北京空港の到着ロビーにやってきた。感情を表に出すタイプと聞いていたが、これから彼を待ち受けているものがそれだけ大きいということなのか。

挨拶もそこそこにエアポートエクスプレスに乗り込み、私はインタビューを開始した。

「なぜこの大会を?」
「本当はバンクーバーマラソンに出たかったけど、航空券が高すぎて無理でした。近場で走れる海外の大会を探していたところ、この大会を見つけました。」

「印象は?」
「まだ走ってもいないので何とも言えませんが、情報量が少なすぎて戸惑っています。中国の大会はこんな感じですか?それともこの大会だけですか?」

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とにかく情報がないということに、彼は神経質になっているように感じる。 日本のマラソン大会はホームページを見れば必要な情報を簡単に見つけることができるが、確かにこの大会は分からないことが多すぎる。

それをチャイナクオリティと呼ぶには少し無理がある。この大会の主催者は確かに中国人だが、日本で暮らしているし、日本人の友人もいる。日本のマラソン大会も知っている。やるべきことは分かっているのだが、彼はとにかく忙しすぎる。

北京オリンピックを経て、中国はまったく違う国になっている。あらゆるもののクオリティが高くなっているし、新しい技術も積極的に取り入れるようになっている。日本で暮らす人たちはそのことに気づいていない。

「中国は発展が遅れて、技術力もなく民意も低い」その全てを否定することはできないが、成長の速度はどの国にも負けていない。このペースで行けば、数年後には中国は世界の大国という地位を取り戻すだろう。

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「このあたりは学生街ですか?」と彼が聞いてくる。
「ええ、たくさんの学校が集まっているので、若い人がたくさん暮らしてます。」
「ぼくの知っている北京の街とはまったく印象が違う。」 

その大会の会場となっているホテルがあるのは魏公村。中央民族大学や北京舞蹈学院など、北京を代表する大学がいくつも集まっている地域で、ここに日本人がやってくるのは、この大会が開催される期間に限られている。

北京で働く日本人は朝陽区に集まるか、留学生も北京大学か清華大学がほとんどで、この地域ではあまり見ない。とはいえ、外国人が珍しいわけでもない。そのため日本人だからといって、いい意味でも悪い意味でも特別な待遇を受けることはない。

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ホテルでチェックインと、大会の受付を済ませた彼は、ようやく強張っていた表情が緩めた。実際に受付を済ませるまでは、本当に大会が開催されるかどうか半信半疑だったのだろう。

万里の長城を走る。本当にそんなことが可能なのか。世界遺産を舞台にしたマラソン大会。世界的に見てもそんな大会はほとんどないだろう。そもそも2万kmも距離を持つ世界遺産は世界でもここにしかない。

受付を済ませたことで、あとは走るだけと腹をくくったのだろう。

「西単に行きたいけど案内してもらえますか?」

大会が開催されるのは2日後の5月1日。それまでの時間をどう過ごすのか気になっていたが、まさかいきなり西単に行きたいと言い出すとは思わなかった。王府井や紫禁城、天安門広場など、日本人が好みそうな場所はいくらでもあるのに、彼は西単を選んだ。

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「最先端の街なんでしょ?」

当たり前のように彼はそう言ったが、なぜ日本人がそんなことを知っているのか。アップルストアやブランドショップが並ぶ街。路地を少し入れば若者向けのお店があり、日本でいうならば渋谷のような街。ただ、ガイドブックに載ることはない。

彼は、北京の今を感じたいと説明してくれた。10年前に初めて訪れて恋い焦がれた街。ようやく時間を取って北京を感じることができたのだから、その時間は無駄にすることなく北京を感じたいらしい。

きっと彼にとっては紫禁城や王府井が北京なのではなく、そこで暮らしている人たち、その生活そのものが北京であり、そこに憧れを抱いたのだろう。10年前にどのような経験をしたのかは分からないが、珍しいタイプではある。

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何を買うわけでもなく、デパートやアップルストアなどをウロウロしながら、しきりに感心している。

「街には何もかもが足りていないけど、ここにいる人たちは日本人が失ったものを持っています。」
「それはなんですか?」 
「意欲、いや情熱と言ったほうがいいかもしれません。以前ほどではないけどここには情熱がある」

以前というのが10年前のことを示しているのだろう。北京オリンピック前、この国に唯一残された資源が情熱だった。そこから少しずつ裕福さを手に入れると同時に、失いつつある情熱。それでもまだ日本人が羨むほどのものが残っているのかもしれない。

 願わくばその情熱が残っているうちに日本を追い越していきたい。いまの日本は眠れる獅子だ。進むべき道を見失い、少し前には大きな地震によって多くの命が失われている。ただ、こうなったときの日本人は強い。

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もしかしたら、空港での彼がナーバスになっているように見えたのは、あの地震の影響もあったのかもしれない。日本人の彼ならきっとこう考えているだろう。

「走っている場合ではない」

それでも彼は北京にやってきた。そして2日後には万里の長城を走ることになる。これはひとつの運命なのだろう。きっと彼がこの大会を走ることは、マラソンの神様によってずっと昔から決められていたのかもしれない。

「友だちと会うので今日はここまで」

そう言って駅に向かった彼の後ろ姿は、長く北京で暮らしている人のように自然と町に馴染んでいた。「不可能(bù kě néng)」そんなことありえない、日本人が北京の街に馴染むなんて。そう言いかけたが「ありえるかもしれない」と思い直した。

日本人はこれまで何度も私たちを驚かせてきた。中国人は日本人が失ったものを持っていると彼は言ったが、日本人は中国人がどれだけ頑張っても手にすることができないものを持っているのだから。

万里の長城マラソン


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著者:あさのあつこ
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