スーパースターの資質:誰もがメディアになる時代を生き抜く

連日のように大谷翔平選手の通訳である水原一平さんに関するニュースが飛び交っています。私はネットニュースのタイトルでその騒動について把握している程度で、細かいことはわかりません。ただ、マスコミが大谷選手にとても気を遣っていることは感じています。

水原さんが別の選手の通訳だったとしたら、おそらくその選手も巻き込んで、あることないこと報道されていたのは容易に推測できます(マスコミもそれが仕事ですから)。でも、相手が大谷選手ということで、その人柄はもちろんのこと、今後の関係も考えてできるだけ刺激しないようにしているように感じます。

マスコミのそのような対応を見ていると、大谷選手はスーパースターなんだなと実感します。そんなところを見なくてもスーパースターなのはわかるだろうと野球ファンからはケチをつけられそうですが、有名人や成功者の中にもスターである人とそうでない人がいます。


どれだけ有名になっても、ちょっとしたことで標的になり潰されてしまう。どこかで歯車がズレてしまって、表舞台から姿を消す。そういう人たちを私たちはこれまでに何度も見てきました。でもスーパースターが消えることがありません。どこにいても、どんな状況でも自ら輝き続けます。

オードリーの若林さんが、相方の春日さんに対して「春日はスターだから」と言っているのを何度か聞いたことがあります。以前はそれを聞いて、この人は何を言っているのだろうと訝しく感じていたのですが、最近になってわかってきたことがあります。

スターというのは「この人には絶対敵わない」という何かを持っている人のことを示す言葉なのかもしれません。それは才能なのか運なのかはわかりません。努力では手に入れることのできない圧倒的な何かを持っているから、周りの人はそれを潰してはいけないと思ってしまう。守りたくなってしまうのかもしれません。


ただ、そういうスターも権威を持つと、その輝きを失ってしまいます。島田紳助さんやダウンタウンの松本人志さんは、スターから権威になり、そしてそれを疎ましく感じる人たちに引き摺り落とされたのだと私は考えています(事実関係はわかりませんが)。

その人の持つオリジナリティ(才能や運など)に対する憧れと親しみやすさ、そして「こいつは俺が守ってやりたい」と感じてもらえる要素を持っている人がスーパースターになるとして、権威がついてしまうと親しみやすさとか「守ってやりたい」という部分が消えてしまうのでしょう。

権威を失ったスターに対する寛容性のようなものが、この10年間で少しずつ削られていることも関係しているのかもしれません。表舞台に立つ人は聖人君子であることを求められ、多くの人が勝手に作り出したイメージから一歩でも踏み外すと炎上させられ、表舞台から退場させられます。


もっと寛容であるべきと言いたいわけではなく、私たちはそういう時代を生きていて、そこに適応しなくてはいけないという話です。誰もが不正を告発できる時代、誰もがメディアになれる時代に生きる。それは誰もが標的にされる時代を生きているということでもあります。

そんな時代を生き抜くには、守ってあげたいと思われるようなスターになるか、輝かないように目立たないように生きるか。スターにはなりたくてなれるものではなく、少なくとも私はその資質を備えていないことは明白で、それならば目立たず大人しく……と言いたいところですが、それでは物書きを名乗れません。

主張なき物書きの文章なんて、誰も望んでいません。だから批判を恐れることなく自分の言いたいことははっきりと伝えること(ただし必要以上に誰かを傷つけることなく)。これが40代も終わりに近づいてきた私がいま抱えている課題のひとつです。

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