インターネットがはじまった時代:依存しすぎないこと

東京の亀戸で友人が立ち飲み屋の1日店長をするということで、少しだけ訪問してきました。立ち飲み屋ではあるものの、誰でも気軽に入れるという雰囲気というよりは、知る人ぞ知る感じの店構え。集まってくるのも個性的なひとたちでした。

そこで他のお客さんとインターネット黎明期の話になったのですが、90年代は誰もが情報に飢えていて、情報さえ得られれば「何でもよかった」という話になりました。これは私たちの世代にとって刺さる言葉で、おそらく今の若い子には意味がわからないかと思います。

今の20代にインターネット回線が64kbpsだった時代を理解しろということか無理であり、その時代を想像してもらうことに何の意味もありません。単純にそんな時代もあったねと笑いあったというだけの話であり、それ以上でもそれ以下でもありません。


私がインターネットに触れたのは1995年だったはず。Windows95がブームになっているときで、24万円もするNECのノートパソコンを購入しました。当時パソコンを使って何をしていたのかは覚えていません。ただ、パソコンの初期化が必要になり、何十枚ものフロッピーディスクを購入した記憶があります。

いま思えばそのトラブルが、私がインターネットの世界に足を突っ込むきっかけになったように思えます。自分でトラブルを解消することの大切さを学び、自分でなんとかできるという自信が芽生えました。今では大抵のパソコンやインターネットでのトラブルには対応できるようになっています。

当時のインターネットに掲載されているのは限られた情報でしかありませんが、本当に「何でもよかった」ような気がします。まだインターネットには情報が蓄積されていない時代で、今のようにインターネットで何でも調べられる訳ではないという時代背景も関係しています。


あの頃のインターネットにあったのは、速報性だけかもしれません。ただ、それは驚くほどの速さで、今日アメリカで起きたことがディスプレイに表示される。そこに書かれている内容よりも、リアルタイムに近いタイミングで世の中のことがわかるということ自体を楽しんでいました。

まだ何も手にしていなかったけど、そこには確かに希望があり、インターネットに接続するだけでワクワクするような毎日を過ごした時代。その頃に戻りたいかといわれるともちろんそんなことはなく、ただ欲しい情報が何でも手に入るインターネットの世界にワクワクしなくなっている自分がいます。

それが良いことなのか、それとも良くないことなのかはわかりませんが、失ったものを残念に思ったところで、もう元に戻ることもありません。私たちは前に進むしか道はなく、時代の流れに対応していかないと生き残ることができないことを教えてくれたのもインターネット。


もはや生活にかかせない存在であり、インターネットのない世界で生きていくことは不可能なくらい依存しています。何十年もかけて社会インフラになり、さまざまなサービスがインターネットを使って提供されている現代。それはとても危険な状態だと思うことはあります。

インターネットの基盤となる部分が物理的に破壊されたとすると、私たちは電車で移動することもできなくなり、コンビニやスーパーでの支払いもできなくなります。そして何が起こっているのかを確認する手段も失います。親しい人と繋がることも。

インターネットがなかった時代に戻ることはできませんが、依存しすぎないということをいつも頭の片隅に置いておく必要があります。ただ、そんなときがやってきたら、私はきっとまたワクワクするのだと思います。結局のところ私は、あの頃からずっと「希望」を探し続けているのでしょう。

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