みんなそれぞれに憧れの人や、追いかけている人がいるのに、わたしにはなぜそういう対象がいないのだろうと変なところに引っかかりました。
引っかかったのはラン仲間と出かけた天童ラ・フランスマラソンの帰りの車の中でした。会話の中でみんなそれぞれに憧れていたものが出てくるのですが、そう言えばわたしには誰も居ないなと。
このブログでもよく出てくる女優の石田ゆり子さんは、あこがれの存在というよりも、彼女の書く文章が好きで彼女の考え方が好きなだけで、例えばドラマや映画に出ていても観たいとは思いません。
森脇健児さんに関しては、憧れに近いものがありますが、どちらかというと兄貴という存在に近いかもしれません。姉と妹に挟まれて育ったわたしは、どこかで男の兄弟に憧れがあったのでしょう。ですので、熱狂的に追いかけるというようなことはしていません。
もし森脇健児さんがマラソンをしていなかったら、わたしの中では2度と開かない記憶の引き出しに、しまわれていたことでしょう。
憧れのアイドルというものはいません。音楽をたまには聞きますが「ライブに行きたい」と思うほど好きになれる歌手もいません。追いかけた人があるとすれば、サッカーの三浦知良さんくらいかもしれません。
それはファンとしてではなく、この人のところまでたどり着くのだという意味での追いかけです。結果的には追いつくことはできませんでしたし、プレースタイルもまったく違いましたが、そこを目指せば世界が近づくと信じていました。
ただ、三浦知良さんですら絶対的な存在ではありません。あくまでも目指すべき山頂のようなものです。
みんなには憧れの存在がいて夢中になれるのに、なんでわたしにはそういう人がいないのでしょう。これまでそんなこと考えたことがなかったのに、急にそんなことが気になり始めました。
もちろん夢中になったことがないわけではありません。
今では走ることに夢中ですし、学生時代はサッカーに夢中になって、他のものはまったく視界に入ってきませんでした。高校時代の頭の中はサッカーばかり。大学はいろいろあって勉強もしましたが、試験期間前でもない限り、やはり頭の中はサッカーだけでした。
誰かを応援したり、追いかけたりするための時間を、全部自分の成長のためだけに使ってきたような気がします。
それがいいのかどうかは分かりませんが、もったいない生き方をしてきたなとも思う自分もいます。そういう道を選んだから今の自分があるわけです。なので後悔することはありません。
でも、正しい青春時代を過ごしてこなかった。だからいつまでたっても大人になれないんだろうなと思います。
友だちと買い物に行ったり、飲みに行ったりして、ときには合コンなんかして。そういう時間の使い方をほとんどしてこなかったことが、本当に良かったのか。振り返ってみると少しだけ疑問に感じます。
過去は戻りませんし、今の自分が好きなのでこれはこれでいい人生だと思います。ただ、誰かに夢中になっている人を見ると「楽しそう」と思うわけです。
隣の芝生の色でしかないのでしょうが。きっと走っていない人から見ると、わたしの日常は「楽しそう」に見えるのかもしれません。そう考えるとただのないものねだりなんでしょうか。
でも、夢中になれる人がいないというのは、もう少し根の深いことのようにも感じます。
誰かに夢中になれなかったからこそ今の自分があるのか、こういう自分だから誰かに夢中になれないのか。いい年して独り身でいるというのも無関係ではないのでしょう。
もっと人に興味を持つようにしたほうがいい。頭では分かっているつもりなのですが、それができないのがわたしなのでしょう。ただこの部分は諦めずに時間がかかってでも変えていこうとは思います。
憧れの芸能人はいなくても人生に大きな影響はありませんが、夢中になれる人がいるほうが人生はきっと豊かになるはずですから。
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