みんな大変だなぁと思うことが増えてきました。中山道ランの途中あたりからでしょうか。TwitterやFacebookへの投稿がなんか苛立っているものが目立ち、何かと戦っている人が増えているような気がします。
もともとそういう投稿が多かったけど気にならなかったのか、それとも実際に増えているのかは分かりませんが、みんな幹を太くして、強い風にも負けないように立っているように感じます。
それに比べるとわたしは踏ん張ることのない柳。風が吹けば揺られますし、押されても引いてもなされるがまま。
いつも言っていることですが、わたしは競争が好きではありませんし、誰かに褒められたいタイプの人間ではありません。もちろん褒められると嬉しいときもありますが、基本的には居心地が悪くなります。
例えば中山道を走ったことを「すごい」と言われても、正直なところ何がすごいのかは分かりません。9日間働かなくてもいいという部分はすごいかもしれません。でも、難しいことをしたわけではありません。
誰もがやろうと思えばできるけど、誰もやろうとしないことをしただけ。しかも無理のない範囲内で。
だから、わたしは謙遜でも何でもなく、本当に自分がすごいなんてことは思いませんし、わたしよりもすごい人はいくらでもいるわけです。だから自分のやったことなんてすごく小さなことだと思っています。
それと同じくらい、他人の評価もどうでもいいものだと思っています。
中山道を走っているときに体がきつくなったときに何度も考えたのは、「この大変さは自分だけのもの」ということでした。誰かと共有することはできませんし、分かってもらいたいと思うのは甘えです。
反対に誰かが苦しんでいるとき、それを理解しようとするのは傲慢です。どうやっても人の痛みなんて分かりません。分からないから想像し、出来る範囲で手を差し伸べます。でも、その手につかまるかどうかは、その人が決めること。
テレビドラマなどで「私はこんなに頑張っているのに、何で分かってくれないの?」なんて台詞があります。実際に似たようなニュアンスのことを言われたこともあります。
自分のこともよく分からないのに、どうして他人のことまで分かってあげられると思うのか、いつも疑問に感じています。苦しみの共有なんて絶対にできません。苦しみは自分で抱え、喜びは自分の手に残さない。これがわたしのスタンスです。
それを他の人にまで強要するつもりはありませんが、「自分はこんなにも大変なんだ」とSNSなどで不特定多数に伝えているのを見ていると、よけいに辛くなるだけなのになとは思います。
「他の人に言えないことでも、何でも相談してよ」という友情。そういうのは嫌いじゃありません。1対1の関係ですし、そこまで信頼できる人間関係は素敵だと思います。
でも、そういう相手は人生で何人もいるものではありません。
わたしは基本的に誰にも相談はしません。相談相手がいないからというのもありますが、困難は自分で乗り越えるから人生は楽しいのであって、相談して解決するのは攻略本を見てゲームを進めているような感じがして面白味を感じません。
人生なんて99%以上思い通りにいかないことばかりです。
その都度、誰かに相談したり頼っていたのでは自分で解決する力も付きませんし、いつまでたっても自立できません。自分で考えて、失敗をいくつも積み重ねてようやく成功に辿り着く。
それを何度も繰り返して、いつの間にか自分らしさが作られていくんだと思っています。
わたしも以前は自分が正しいと思う道を進むことが、自分らしさを作るのだと思っていました。でも自分にとって正しい道が、必ずしも他の人にとって正しい道であるとは限りません。大事なのは異質なものを受け入れるしなやかさ。
中山道も西から来る人と東から来る人で、同じ道を歩いていても真逆の方向を向いているわけです。いろんな人がいるから出会いがあります。いろんな人がいるから思わぬハプニングが起きます。
自分の考え方ややり方と違う人がいるのが当たり前。ぶつかるか、柳になるかはそれぞれの自由ですが、限られた時間の中で生きているわけですから、怒るよりも笑って過ごしたいというのがわたしの考えです。
眉間のシワよりも目尻のシワ。
SNSで何を書いても自由だと思いますし、愚痴を書いて本当に楽になるならそれでいいと思います。でもわたしにはストレスをさらに溜め込んでいるだけのように見えます。
その苦しみはいつだって自分だけのもの。
愚痴っても構わないけど、最後にオチをつけて笑いに変えるくらいはしたほうがいいんじゃないかなと思います。ネガティブをポジティブに変える。少なくともわたしはそういう人に魅力を感じます。
コメント