ここ数日、疑問に思っていたことを調べながら記事作成をするという作業が続き、知っているようで知らないものなんだなと、改めて自分の知識の浅さを思い知らされました。
人間の知識量というのは、いったいどこまで増やせるのでしょう。望めばどこまでも深堀りできるのか、それともどこかで収束するのか。おそらく収束するのだと思います。でも、それはかなりのレベルにまで到達したときのことです。
今回は北京旅人のサイトで、北京の歴史についての記事を書きました。
全然理解していないわけです。特に近代史は調べながら書けるというレベルではありません。国民政府や北洋政府の存在は知っていても、それが歴史上でどのような役割があり、なぜ共産党ができたのかなど、知っているつもりになっていることが多々ありました。
最終的には記事にできましたが、おそらく近代史については別の記事にしなくてはいけない気がします。日本と中国の関係について。それをしないと、中国の友人と対等に語り合うことができません。
北京の歴史というのはひとつの例でしかありません。北京旅人では、これまで66のページを作っていますが、北京についてそこそこ詳しいつもりでも、書けば書くほど無知であることに気付かされます。
ただ、それを悲しいと思う気持ちはなく、むしろまだ伸び代があることを喜んでいます。記事にしているうちに行きたくなった場所やお店が増えています。この秋に万里の長城マラソン秋大会で北京に行きますが、楽しみしかありません。
他の分野もそうですし、ランニングでも学ぶことが多々あります。人生というのは一生勉強を続けていかなくてはいけないのかもしれません。情報は常に新しいものに置き換えられ、過去の常識はあっという間に非常識になります。
そういうときに、過去の常識に引きづられない自分でありたいなとは思います。人間というのはどうしても、過去の経験で物事を捉えてしまいます。物事を効率的に行うためには仕方のないことですが、わたしは何かを効率的にしなくてはいけない理由はどこにもありません。
むしろ物書きですので、クリエイティブであることが求められます。あたり前のことをあたり前に捉えるのではなく、自分なりに角度をつけてみたり、俯瞰してみたりと、アプローチの仕方を変えて試行錯誤する。
人によっては、そういうのを面倒に感じるかもしれませんが、わたしはむしろ楽しく感じます。これは適正の問題ですので、物書きという働き方が自分には合っているのでしょう。
ただ、このまま書き続けるだけではいけないという危機感があります。最近は案件数も少なくなってきて、一方でライターの数は増えています。需給バランスが崩れつつあるので、ここからは自分の力で食べていく方法を試していきます。
そのためにランニングの電子書籍を書こうかと思ったのですが、自分の無知さを知りちょっと躊躇っているとことです。ただ、わたしが考えているのは専門家になるのではなく、幅広くなんでもやっている人です。
おそらくこれからの時代は、多能な人間ほどニーズが増えていきます。物書きだけではダメで、写真も撮れて、動画作成もできる。しゃべりも面白くて、ボケもツッコミもできるキャラクタ。
打てば響く人間になれるかどうか。いや、打たれなくてもいい音を出せる人になれるかどうかが、フリーランスで生き残れるかどうかを左右します。断言しますが、ウェブライターだけで生活できる時代はもう終わります。
それに気づくのがちょっと遅すぎた感があり、今のわたしは脱出するための最終便に乗り込めるかどうかの瀬戸際にいます。もう1年前から動き出すべきでしたが、できていないことを嘆いても仕方ありません。
石橋は叩いて壊せと教えられてきましたから、時代の流れを読むにしても、やはりワンテンポ遅いなというのは否めません。でも、そういった機敏さがないところも含めての自分です。
ギリギリに飛び乗ろうとしているのが、現状のわたしです。乗り移るのに失敗したら、かなり苦しい状態になりそうですが、きっと自分なら大丈夫な気がします。根拠はありませんが。
そういうところで運はいいんです。そうやって43年も生きてきたわけですから、ここで失敗するとは思えません。ただちょっと見苦しい状態にはなるかもしれませんので、あしからず。