本日のUberEats配達で渋谷ユーロスペース前を通過。上り坂だというのもありましたが、必要以上に動悸が高まって、その後の配達ではずっと映画「劇場」のシーンがフラッシュバックしていた1日でした。よくないですね。ちゃんと消化しきれていません
どうすれば消化できるのかもわかりませんが、きっと文章にするしかないのだろうと思います。でも何を書けばいいというのでしょう?
会社を辞めて独立をしてから浮いた話が一切なく、女性に興味がないのかと疑われそうになるわたしですが、これまでに自分の人生にいおいて、大切な人と呼べる女性を指折り数えてみたら、片手では足りませんでした(半数は想いが届きませんでしたが)。
会社員になってからは、スキあらば失恋していたような気がします。付き合ったのに縁がなくなった人もいますし、フラレたのに毎年連絡をとっている人もいます。人の縁というのは不思議なものです。引き寄せ合ったり、そうかと思ったら引き離されたり。
わたしは自分で強引に縁を引き寄せるのが苦手なタイプ。固執しないのは人もモノも同じで、自分に与えられた条件の中で楽しむから、四六時中誰かのことを想うなんてことはなく……まぁそんな44歳がいたら気持ち悪い。好きな人のことを想い続けるのにもエネルギーが必要ですから。
別に年齢で区切るつもりはありませんが、歳を重ねると分別がつくわけでして。
でも、きちんと自分の中での「恋」というものに決着がついてないから、映画館の前を通過しただけで心拍数が増えてしまうわけです。それに近いもので「青春」とも決着がついていません。決着をつけるどことか20代から1歩も進んでいない気もします。さてどうしたものか。
別に心拍数が上がったところで、倒れてしまうわけではないのでかまわないのですが、きっとアウトプットしなくちゃいけない。クリエイティブな人間として生きるというのがどういうことなのか、映画「劇場」のもうひとつのテーマだったような気がします。
もしかしたら、わたしの中ではそちらの衝撃のほうが大きいのかもしれません。曲がりなりにも言葉を使って商売をしている人間です。クリエイターと言えるような書物はしていないけど、みんなが乗っかるレールから飛び降りて、自分の道を進むという、非クリエイターでは考えられない選択をしました。
なのに常識に囚われすぎていないか?
正解を選ぶことが正しいわけではない。大きなバッグを背負い、東京の街を自転車で駆け回りながら、そんなことを考えていました。きっとわたしはずっと正解を選んできました。失敗するのがこわいから。44年間はずっと失敗を恐れながら生きてきました。
それはおそらく幼少期の影響なんだと思います。母に叱られないように過ごしてきた日々。わたしにとって母に叱られることが失敗で、失敗しないことばかり考えてきたわけです。それが悪いことだとは思いませんし、それで良かったと思うこともあります。
失敗することを自ら選べていたら、また違ったんだろうなと思うことが多々あります。大切な人たちとの未来だって変わっていたかもしれません。でも、実際ニはそれができなかった。そして、こんな歳になっても悶々としているわけです。
すべての出会いに意味があるなら、この映画との出会いにどんな意味があるのか。それはきっと「失敗を恐れない」ということなのかもしれません。失敗してもいいじゃないかと、もっと肩の力を抜くこと。そもそも、これまでたくさんの失敗をしているわけで、今さら失敗が増えてもどうってことありません。
必要であれば不正解を選ぶ。失敗を恐れずに自分の欲に正直でいる。会いたいなら会いに行く。きっとその繰り返しによって、この胸が締め付けられるような感覚が消えていくような気がします。物書きとして、その感覚が消えたほうがいいのか、それとも向き合い続けるべきなのかは悩ましいところですが。
それでもここらへんで、失敗を恐れずに自分の欲に正直に生きてみるのも面白いかもしれません(できるかどうかはわかりませんが)。幸か不幸か独り身なわけですし。転んでも骨が折れるくらいのこと。思い切って恥を晒してみるとしましょう。