才能という言葉が好きではない。持って生まれた能力差というものは間違いなくあるのだが、その能力差を才能と呼ぶのではなく適性と呼ぶぐらいがちょうどいい。才能という言葉には諦めのようなものが含まれている。
自分が結果を出せないのは才能がないから。あの人が輝いているのは才能があるから。才能という言葉はほんとうに便利だ、自分がうまくいかない理由を誰もが認める形で表現することができるのだから。
才能という言葉は努力の積み重ねを無にする力もある。凡人がコツコツ積上げてきたものを天才が一気に抜き去っていく。まるで天才が努力をしていないかのような感覚。
イチローだって錦織圭だって、凡人の何倍もの練習を積んでいる。
彼らにあるのは才覚ではなく、適性だ。イチローはたまたま野球という世界に対して適性があった。錦織圭もテニスという世界に対する適性があった。彼らが機械設計の世界にやってきて同じように世界トップクラスの技術者になれるわけではない。
きっとイチローにはサラリーマンという働き方への適性はないだろう。
才能という言葉を使うと、なぜかその人が万能であるかのようなイメージを抱いてしまう。自分の手が届かないまったく違う世界で生きる人。実際はそうではなく、イチローだってあなただって、同じ人間でどちらが優れているということはない。
成功者と呼ばれる人も同じだ。彼らは特別なわけではない。ただ、他の人よりも適正があっただけで、そこから猛烈な努力をし、血を吐くような思いをしながらいまの地位に立ったのだ。それを才能という言葉で表現するのは正しくない。
適性がないとわかったとき、別の世界に移るか、それとも適性がないまま努力を重ねるかはその人の人生観次第だ。別に成功者になることが人生の目的ではない。そういう生き方だって何の問題もない。
だが、そこで努力を放棄することは少なくともわたしの価値観の中では認められない。適正がある世界でもそうでない世界でも、いつだって全力で向き合い、いい結果を出すために必死になるべきだ。
諦めは人生から色を奪い、努力は人生に彩りを与える
あなたが輝けるかどうかは適性の有無では決まらない。そんなものを気にもせず、変化することをおそれず日々挑戦する人だけが美しく輝き続けるのだ。
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