今朝書いた「アディダスのブーストはランナーにとってプラスなのかマイナスなのか」は記事として重いかなと思いながらも伝えたいことをしっかり書いた結果、いつもの記事以上に多くの人に読んでもらえました。
やっぱり記事は多少長くても魂込めて書いた記事が読まれるんだなと当たり前のことに気づきました。
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別に手を抜いているつもりはないのですが、毎日ずっと物書きをしていると集中力が切れたり、文章に妥協することがあるのかもしれません。今朝の記事は我ながらしっかり書けたと思ったら多くの人が読んでくれたわけです。いい循環です。
最近請けた仕事の中で、1500文字で書くという仕事があり、1500文字で書いたところ情報が足りないと修正が入り結局2000文字になりました。このまま続けたら2000文字になるため単価アップか情報の少ない1500文字のどちらかにして欲しいとお願いしたら、500文字ぐらい削れるじゃないかと言われました。
あえて反論はせずに契約をそこで終了させたのですが、基本的には私のスキルでは2000文字の情報を1500文字に抑えることができないと判断したからです。もっと経験値が高い人なら削ることができたのでしょうが今のわたしでは無理でした。
自分に自信がないから多くを語ろうとしてしまうのだと考えています。その一方で魂を込めて誤解なく伝えようと思うとどうしても文字数はかかります。そうわたしは文章で誤解を与えることを最も恐れているのです。
サラリーマン時代の会議中、「そういう言い方すると誤解を招くなぁ」と思った他の人の発言はまず間違いなく誤解して受け取っていて会議がややこしくなりました。
これって「相手はわかってくれるだろう」という推測に基づいて会話をするから起こるわけで「相手が理解していないかもしれない」と思いながら話をすれば起こらないトラブルです。でも多くの人が「相手はわかってくれるだろう」基準です。
なんでこんなことになっているかはわかりません。「わからない」と言うことが恥ずかしい文化が根付いているからなのか、それとも「相手が理解していないかもしれない」という考え方が一般的でないのか。
そうなんです。分からない側も勝手解釈をせずに「わからない」と言えばいいのに何も言わないから、相手も「わかってくれている」と思い込むのです。
わからないことは「わからない」と言うこと。「相手が理解していないかもしれない」前提で話すこと。こういうことって誰が教えるべきなんでしょうね。学校?親?でも教える人が出来ていないことは教えられませんよね。
きっと何十年経ってもこのままなんだろうなと思うわけです。だからわたしはせめてこのブログを読んでくれている人に伝えたい。
会話やコミュニケーションで誤解されることを恐れること
大切にしてください。
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