誰かに信じられる人になるのではなく誰かを信じる人になる

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facebookでやりとりをして気付きがあったのですが、もしかしたらいまの人たち(変な表現だな)って「信頼」って言葉の意味がわからないんじゃないかと。

いやいやそんなことあるわけないと思う人はたぶんこっち側の古い人・・・かも。

もし「信頼」や「信じる」ということが世の中から消えているなら、いまこの国で起きている腑に落ちない出来事が納得できなくもないレベルにまでは近づいてきます。

村上龍さんが「希望の国のエクソダス」を書いたときに「この国には希望だけがない」と書きました。そしていま「この国は信頼だけがない」状態にあるような気がしてなりません。

誰もが自分以外の誰かを信じることができなくなり、それでも自分のことを信じて欲しいと願う。

あたりまえですが、相手のことを信用していない人が相手から信用されるというようなことがありません。でもきっとこのあたりまえの感覚もないのかもしれません。

自分は常に正しいのだから信用されて当然だと考えている人がわたしが感じている以上に大勢いるのかもしれません。

もし誰かに自分のことを信じて欲しいなら「自分は信用できる人ですよ」とアピールするのではなく、誰かのことを疑わず信じることから始めなくてはいけません。

いや自分のことはどうでもいいんです。自分が周りからどう思われているなんて完全にどうでもいいことです。どれだけの人が自分を信じてくれているかではなく、どれだけの人を自分が信じられるかが大切です。

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全力で誰かのことを信じる。それは全力でその人のことを想うことでもあります。

遠くはなれた場所で苦しんでいる知人がいたとします。その人のことを思うと胸が苦しくなり、真夜中であっても会いに行きたくなるような気持ち。そんな気持ちになれる知人どれだけいますか?

これは「信」というよりは「愛」と表現したほうが適切かもしれません。

誰かを信じることができない人は、誰かを愛することもできません。それでも愛されたいし、信じてもらいたい。それが大きな歪みになっている、そんな気がします。

20年近く前にこの国に個人主義の芽が出たころからこうなることは避けられなかったのかもしれません。誰も他人のことを想う余裕がなくなってしまったから。

みんな自分のことで精一杯。人間にはキャパシティがありますから、自分のことで手が埋まったら他の人のことまで考えられません。

だったら思い切って自分のことを手放せばいいんです。

自分のことを手放したら誰かのこと考えられるスペースが空きますから。良いか悪いかは別としてそれが日本人だったはず。そして日本人のDNAとしていまの人たちもそれを持っているはず。

自分のこと大好きでいいんですよ。

でも他人のことを大好きな自分のことが大好きだともっといい。

そろそろこの国の行き過ぎた個人主義を終わらせませんか?

この言葉が本当に届いて欲しい人たちにまで届くとは思えませんが、何かを感じたたった1人が勇気を出して自分を手放し、誰かのことを考えるようになってくれるとちょっと嬉しい。

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