東京都の話だからどうでもいい話ではありますが、舛添さん辞めることになりました。別に舛添さんと親しいわけでもないので、最終的な袋叩き状態はあんまり気持ちのいいものではありません。
都知事の器でもない人が都知事をした結果ですから仕方ないといえば仕方ない。
ただ叩く内容がいちいち小さすぎて「こんなことで責められるのか」というような内容がいくつもあります。
いや、もちろんいろいろズルいことした舛添さんが悪いんですけど、叩いている人たちも叩かれたらどんどん埃が出てくる人たちなわけです。
なんの喜劇ですかこれ?
わたしが唯一気になったのは、ホテル三日月で会議をしたとされている出版社の社長の件。ここで舛添さんは「信義」という言葉を使いました。
もし本当に信義があるなら、答えないのは当然ですし、男として答えるべきではないでしょう。追求する側も追求すべきではありません。
「会っていることを秘密にする」という約束での面会なら、秘密は命がけで守らなくてはいけません。政治家というよりも人として約束は守らなくてはいけない。約束を守れない人は誰も信用してくれなくなりますから。
ただきっと信義なんてないんだろうなと思うんです。本当に信義があるなら「会議したこと」を隠しますし。それこそ仕事のため宿泊だったとしてもポケットマネーで出すべきです。
そうすれば会ったことを隠すことが出来るわけですから。
最初に「政治家としての信義」という言葉を聞いたときは納得してしまったのですが、全体像を見ると大きな矛盾を含んでいることに気づきました。
最近、言葉の選び方が間違っているような人が多いのが気になります。
マラソン大会を表現するのに「アットホームな大会」という言葉があります。別におかしいことではないのですが、これを主催者が言うと一気におかしなことになります。
アットホームかどうかは参加者の感じることであって、主催者はただ最高の大会にするために全力を尽くすだけ。アットホームかどうかはその結果、参加者の評価のひとつであって、主催者が目指すべきもの口にだすべきものではありません。
努力や頑張りというのも自分で口にした途端に陳腐化してしまいます。
努力や頑張りは誰かに気づいてもらうものではありませんし、アピールすべきものでもありません。目標に向けて全力を尽くしているのを目にした人が「あの人は頑張っている」「努力がすごい」と評価するもの。
「政治家としての信義」もやっぱり舛添さんが口にすべき言葉ではありません。信義があるかどうかは他人の評価であって、自分が言うなら「信義があるから言えない」ではなく「約束があるから言えない」です。
会議をしたことを公表した時点でそこに信義なんてないわけですから。
まぁそういう意味でもやっぱり舛添さんは器じゃなかったということです。そして都民は彼の器を見抜けなかった。舛添さんを非難するのは自由ですが、彼を選んだということの反省の声が聞こえてこないのはなぜでしょう。
舛添さんだけが悪者になっておけばいいというのは、日本らしくてすごく気持ち悪い発想です。
どうせならこれを機にすべての政治家の不正を徹底して洗い出してしまえばいい。そして少しでも不正している政治家をすべて排除してみればいい。いや政治家だけでなく、すべての日本人の不正を洗い出せばいい。
そうしたときに真っ白な人間は何人残るのでしょうか。
繰り返しますが、舛添さんを弁護するつもりはこれっぽっちもありません。正直、彼の器の小ささは叩くにも値しません。それをみんなで寄ってたかって叩いている。
浦島太郎で亀を救い出したのは日本人でしたが、亀をいじめていたのも日本人。
都合のいいときだけ武士道だとか大和魂とかを持ちだして、日本人すげーとか言っている日本人が、舛添さんを叩いていると思うと憂鬱な気分になります。
叩いているのも叩かれているのも日本人。
みっともないからこれ以上騒ぐのはやめたほうがいい。特に都民でない人はまったく関係のないことですし、都民ならなぜ彼を選んだかという反省のもと、今後どうするべきかを考えればいい。
その反省なしに都知事選を行っても同じことを繰り返すだけ。もっともこんな状況ではまともな人間は立候補しないでしょうね。生まれるのはまたしても器の小さい都知事。ヘタすればタレント都知事。
見事なまでの人材不足。都民の未来にまったく光が見えないのはわたしだけでしょうか。
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