イチローが日米通算4000本安打を達成した。ちょっと嬉しい。実はおいら小学校時代は野球小僧だった。野球小僧だったおいらがいつの間にかサッカー小僧になり、気がつけば裸足ランナーになっていた。ただ、その原点はやはり野球にある。初めての習い事はスイミングスクールだったから原点はそこにあるのかもしれないけど、スイミングは知らないうちに始まってたからやっぱり違うかな。仲の良い友だちと少年野球に入ったことがおいらのスポーツ人生の始まりだと思う。小学校の1年の終わりからだったかな。それから大学院を卒業するまでほとんどの土日を運動して過ごしてきた。そして卒業してからもフットサルをした時期を経て、いまのランナーとしての自分がいる。
野球小僧がなぜサッカーを始めたのか。それは親戚のお兄ちゃんがサッカーはモテるぞと言ったからだ。もちろんサッカーをしていればモテるのではなく、サッカーをしているお兄ちゃんがモテていただけのことだ。同じことをしておいらがモテるのはまた別問題だとはこのときは気付かなかった。野球から一気にサッカーに行ったわけではない。途中に中学時代のハンドボール部というのがある。投げる&打つ→投げる&ゴール→蹴る&ゴールときちんと順を踏んでいる。
野球をやめた理由は、これ以上やってもうまくならないと思ったからというのが本当のところだ。とにかくセンスがなかった。それは野球にかぎらずスポーツ全般的にできない子だった。ずっと体を動かしていたから、平均よりは少し出来ていたかもしれない。でも、それだけやっても平均よりちょっとだけ上なレベルで、なにもしなければのび太くんばりに使えない子になっていたと思う。劇的に足も遅く、そもそも身長も低くて力もない。そういう状態は大学まで続いた。
それでも運動することはずっと続けてきた。うまくできなくても、とにかく続けてきた。貧弱だったおいらは貧弱なりに運動をし続けて、いつしか貧弱ではなくなった。ガリガリで今にも折れそうなほど細かった体は、体重の増えすぎを気にしなければいけないほどしっかりと肉がついてきた。そしていまはフルマラソンどころか24時間マラソンまで走れるようになった。継続は力なりだ。
イチローの4000本安打も継続の力なんだろう。彼は毎日毎日同じ流れの中で生活しているらしい。数年前まで彼は毎朝カレーライスを食べていたそうだ。そこまでこだわって日々のルーチンを均一にすることで、野球に関するほんの些細な違いも見逃さないようにしていたんだと思う。いつもと同じことをして違う結果が出た場合、どこがおかしいのかに気づきやすくなる。昨日の朝ごはんは食パンで、今日の朝ごはんは納豆と味噌汁だとして、昨日と今日の打席での結果が違った場合、対戦相手が違うからなのか、それとも朝ごはんが原因なのかわからなくなる。そういうことを避けてきたんじゃないだろうか。
そういう作業を延々と繰り返して4000本安打に達成したのだ。
振り返っておいらはどうだろう。たとえばお伊勢参りランでルーチン化できていただろうか。走りぬくために試行錯誤をし過ぎて、なにが正しくてなにが間違っているか混乱していなかっただろうか。仕事でもそうだ、昨日うまく設計できたのに今日はなぜか頭が回らなかったときにその原因をうまく見つけられるための努力をしていただろうか。彼は天才だから特別だと決めつけるのは簡単だ。じゃあ凡人のおいらは彼以上の努力をすべきなんじゃないだろうか。
その前に自分が何者になりたいのかをもっとはっきりさせ、そこに進むための覚悟をしなきゃいけない。イチローは自分自身が野球選手であることだけに集中して生きてきた。おいらもランナーであること、情報の伝達者であることに集中しなければ、その他大勢に埋もれてしまう。おいらに必要なのはその覚悟だろう。あれもこれもは手にはいらない。イチローだって野球選手になるために多くのものを手放していったのだろう。いや、彼ほどにもなるとほかのものは最初から視界に入っていないのかもしれない。
凡人が凡人であることを受け入れることもひとつの生き方かもしれない。でも、凡人が天才以上の努力をしたときに天才を超えられるのかというのがおいらの永遠のテーマでもある。夏の暑さで緩んでいた気持ちをここでもう一度引き締めなおそうと。そしておいらなりの4000本安打を達成するために、もっと自分に厳しくいよう。イチローに比べて何ひとつ成し得ていない自分に危機感を感じずにはいられない。
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