ピラティスの先生が引っ越しをして、友だちと家をシェアし始めたそうです。なんだか楽しそうだなと思うんだけど、おいらにはできないだろうなぁと思うわけです。自分以外の誰かと一緒に暮らせるイメージができないというか、共同生活に向いていないとかいうというのもある。それだけじゃなくて、おいらにはどうしても譲れない場所があるのだ。もうタイトルになっているのでわかると思うけど、その場所はキッチンだ。いつからかキッチンはおいらにとって特別な場所で、部屋の中でもっとも重要な場所になっている。
いまのアパートではないのだけど、前に住んでいたアパートでは友だちが集まって食事会のようなことをしていたのだけど、そういうとき誰かがキッチンに入ることがある。洗い物をしてくれたりするわけだけど、おいらはそれがすごく苦手なのだ。自分以外の人が自分のキッチンで作業をしている。どうもしっくりこないというか気持ち悪いというか、落ち着かなくなってしまう。自分の腹の中を見られているような感覚。わかるだろうか。自分のキッチンは誰にも入られたくない聖域だと言ってもいい。
逆に人のキッチンに立つのも好きではない。人の聖域を犯しているような気分になるから。実家であってもキッチンは苦手な場所だ。もっとも実家もそこで育ったわけではないので友人の家のキッチンと同じようなもんだろう。特別な理由でもなければ、自分以外の人が主となっているキッチンで料理をしたくない。もちろん、まったくやらないわけではない。病気で寝込んでいる人に料理を作るのならそれは特別な理由になる。でもできるだけ自分の家で下準備をして、相手の家のキッチンを使うのは最低限で済ませたい。
他の人のキッチンの苦手な点を考えてみよう。まず調味料がどこにあるのかわからない。これは料理をする前に考えておかなきゃいけないんだけど、作り初めてから探すことになると大変なことになる。普段使う人の動線とおいらの動線が違うわけだから、動線の流れの中で見つからないこともある。調味料そのもののクセというのもわからない。普段使っている調味料なら「これぐらい」ができるのだけれども、他の人のキッチンにある調味料はその適量がつかめない。そういうことは料理をするうえで不安要素になり、不安は料理の味にもろに影響する。不安な料理は不安な味になる。気のせいかもしれないけど。
他にも冷蔵庫なんかは重要だ。どのような詰め込み方をしているかで性格がわかることもある。どのようなサイズの冷蔵庫を使っているか、その中はどうなっているか。常にきれいにしていれば見られても問題ないと思うかもしれないけど、ちょっとした自己流を見られるのがとても恥ずかしい。賞味期限の切れた調味料なんか発見された日には3日は寝込めるだろう。でも自分らしさのあふれた自分の冷蔵庫はなぜか落ち着ける。
ひとつひとつの道具にしても、やっぱり自分のでなければ使いにくい。それがどんなに高級品であってもそうだ。包丁はとくに毎日使うものだから、切れ味の違いは違和感につながる。自分の包丁が切れないのとは違う切れなさがあって、自分の包丁の切れやすさとは違う切れやすさがある。鍋も人によっては何用の鍋か決まってたりするから難しい。「気にしなくていいよ」と言われても気になるもんだ。
友だちが出産後に実家のお母さんが手伝いに来てくれたときに調味料をごっそり持って来られたと言っていた。その気持ちすごくわかる。おいらも大掛かりに人の家で料理するときは基本の調味料は持参で行く。車で行けるときはフライパンや鍋、包丁も自分のものを用意する。それだけやってもやっぱり他人のキッチンは他人のキッチンだ。その主以外に馴染むことはほとんどない。
アパートを探すときはキッチンを重要視する。決して豪華なキッチンである必要はない。キッチンに立って、料理するイメージをしてみる。そのイメージがしっくりくればOKだし、イメージが上手くできなければNGだ。なんでそんなふうに感じるようになったのかはわからないけど、おいらにとってキッチンは家そのもの。食であり住である自分の暮らしの象徴のような場所なのだ。特別にすごい料理をするわけではない。ご飯を炊き、味噌汁を作る。果物の皮をむく。あとは少しの料理をするだけの場所なんだけど、そこでの作業は楽しいし、熱中できる。初めての料理を作るたびにどんな味に仕上がるかワクワクする。
キッチンは自分だけの特別な場所。
そんな人、他にもいるよね?
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