興奮していたのか、久しぶりのベッドに体がなじまなかったのか、浅い眠りで迎えた北京マラソン当日の朝。北京マラソンは8時スタートなので3時間前の5時に起床する。外はまだ真っ暗な状態なのだが、ゆらいだ街の灯からはとてつもなく空気が良くないことが伝わってくる。この日の大気質指数は400オーバーで重汚染ということになる。この状態は「心臓・肺疾患患者、高齢者及び子供は屋内に留まり、体力消耗を避けるすべての者は、屋外活動を中止」ということらしい。大会本部からも高齢者や体調が万全でない人への参加自粛の告知が出ている。
朝ごはんは前日のうちにセブンイレブンで購入したおにぎり2個とバナナ。中国のおにぎりを食べるのはこれが初めてで、あたり前だが日本のおにぎりのほうがわたしの口には合う。しかも朝の時間がない中なので味わう余裕もない。とにかく胃の中に流し込むようにして朝食を終えた。北京マラソンに限らず海外のマラソンに出る場合は朝ごはんを日本で用意しておくほうがよいかもしれない。体は食べ慣れたものを一番受け付けてくれる。
応援に来てくれた万里の長城マラソン代表の朱さんと地下鉄でスタート会場へ。朱さんはこんなひどい環境で走らないほうがいいと心配してくれたが、わたしにはいまいちピンときていない。確かに少し先が見えないような状況だが、特に臭いがないため危険な感じがしないのだ。30年前の日本の排ガスのように明らかに臭いがある場合は危険を感じられるが、PM2.5にはそういうものがない。途中同じように北京マラソンに出場するランナーと一緒になったのだが、彼は「もう慣れたよ」と言っている。北京のランナーはたくましい。
1時間前、スタート会場はすでに号砲を待ちきれないランナーがところ狭しと集っている。外国人は少なく、ほとんどが中国人ランナーだ。持ちタイムによってスタート地点が区切られているのは日本と同じ。日本よりも大雑把で何時間台で走れるかというのが区分けで、前からエリートランナー、2時間台、3時間台…と続いていく。わたしは3時間台からのスタートになる。各ブロックごとに荷物預けのトラックが並んでいて、ブロック内にトイレもある。台湾でもそうだったが北京も簡易トイレが臭くない。これはちょっとした驚きだ。日本のマラソンのトイレはかなり臭い。違いはどこにあるのだろうか。
中国国歌を全員で大合唱しスタート。いきなり目の前に天安門が迫りくる。数万人のランナーが天安門に向かって走る姿は圧巻で、北京マラソン最大の見所だろう。わたしは最初の数キロは撮影しながらと決めていたのでゆっくり撮影をしながらのスタートとなった。最初の数キロ撮影で、30キロ全力で走り、残りをまた撮影しながら流して4時間でゴールするのがわたしの計画だ。もちろん思い通りになんていくわけがない。
スタートして2キロぐらいで日の丸と中国国旗が背中にプリントされたランニングシャツの女の子を発見した。ゼッケンに書かれている名前から日本人だと判断し、わたしは彼女に話しかけてみることにした。深センからやって来た日本人ランナーで、猛走会というちょっとクレイジーな仲間と一緒に来ているとのこと。その彼女は3週連続のマラソンで翌週は香港100キロに出るのだとか。彼女の仲間のうちのひとりは先週ハセツネに出ている。世界はまだまだ広い。もちろん万里の長城マラソンの勧誘をすることも忘れない。来年の5月に再会できるだろうか。
彼女と7キロぐらいまで並走し、そこからは練習を兼ねてスピードアップ…といきたいところだが、まったくスピードが上がらない。そりゃそうだ。3日前まで坂道トレーニングしていただから。スピード練習はまだ一度もやっていない。それでもなんとか1キロ5分を切るペースを保つ…保てない。なんとか4時間のペースランナーに追いついたが、そこからはひたすらにガマン。何度かペースランナーを抜いては抜き返されを繰り返す。まずは20キロ、次は25キロと目標を決めて前を目指すがスピードがジリ貧で、次第にペースランナーについていくのすら怪しくなる。
エイドごとに太ももとふくらはぎに掛けて水を冷やす。北京のアスファルトはとにかく硬い。北京オリンピックのプレ大会で土佐礼子さんが「硬い」を繰り返していたが、それを身をもって味わうことになった。なにせ戦車が走っても大丈夫なアスファルトなのだから日本のやわなアスファルトとは出来が違う。変なところで技術力が高い中国。
補給の水とスポーツドリンクは充実している。ただ給食が非常に残念だ。スニッカーズのような食感のチョコレートのお菓子とバナナだけ。チョコレートのお菓子はとにかく食べにくい。噛んでも噛んでもなくならないので、水で流し込まなければ食べれない。3時間以上走るランナーは日本で補給食を買って行ったほうが賢明だろう。
走りながら徐々に左足親指の爪が痛みはじめた。そういえば昨年の富士山マラソンでも爪がやられた。シューズが合っていないのかもしれないが、なんとかごまかしながら走り続けた。ただ30キロを過ぎたあたりから痛みが洒落にならなくなってくる。そしてオリンピック公園に入ったところで痛みの限界がやってきた。爪が痛すぎて足が前に出ない。そうこうしているうちにペースランナーははるか遠くへ。
4時間以内のゴールもはるか遠くになりそうだったが、ここで伝家の宝刀を抜くことで窮地からの脱出をはかってみることにした。言うまでもない裸足である。パンがなければケーキを食べればいいじゃない。爪が痛いなら靴を脱げばいいじゃない。脱ぎましたとも、36キロ地点。残り6キロを裸足で走ることにした。実は北京にもベアフットランナーがかなりいて、最初から裸足で走っているランナーを何度も見かけた。だから他のランナーはわたしが裸足でも驚かない。そしてわたしはペースを取り戻す。
ところが、1ヶ月前に24時間マラソンで痛めた左足の踵の痛みが再発。というか1ヶ月治らずに誤魔化しながら練習していたのだが、裸足になったことで悪化させてしまったようだ。それでもペースはなんとか保つ。何人かの中国人ランナーに日本語で応援される。そして残り2キロの直線でわたしは人生最大の声援を受ける。コースの両側を埋めた地元の人たちが、奇妙な仮装で両手にランニングシューズを持った裸足の日本人ランナーに「加油!加油!」を繰り返してくれる。沿道がわっと沸くような感じになったのだ。
誰だ中国人の8割以上が日本に否定的な印象を持つなんて調査結果を出したのは。中国人の彼らは日本人のわたしを全力で応援してくれた。熱い声援で日の丸を身につけたわたしの背中を押してくれた。そしてゴール手前で朱さんが声をかけてくれる。足はパンパンで踵も痛くて地面につけることすら出来ない状態でも、こうなったら歩くわけにはいかない。わたしはランナーとしてベストを尽くさなければいけない。声援を送ってくれた中国人に敬意を払うためにも。
手元の時計で3時間58分25秒、ゴールの時計でも3時間59分台。なんとか4時間以内にゴールすることが出来た。その代償としてゴール直後にマラソンで初めて足をつることになる。タイムはともかく自分のすべてを出し切ったマラソンになった。もう一滴も絞り出せないところまで絞り出した。思うどおりに走れなくても諦めずに粘ることが出来た。上出来だろう。もちろん満足はしていない。この日できる最大限のことをやれたというだけのこと。そしてそれは自分ひとりの力ではなく、声をかけてくれた中国人ランナーや、沿道から声援を送ってくれた中国人の存在があったからこそだ。北京の街がわたしをゴールに導いてくれた。
ゴール後に朱さんと合流し、ちょっと遅いランチでビールを飲んだところでどっと疲れが出てきた。普段はマラソン後に観光をしたりする余裕があるのに、この日ばかりは深い眠りに落ちてしまった。それでも夕食のために起き、再び朱さんと合流し美味しい中華料理とともに北京の街を駆け抜けた1日を2人で振り返った。この話は後日することにしよう。とにかくくたびれた。これまでのランナー人生で一番厳しいマラソンと言っていいだろう。何度も気持ちが折れそうになり、もういいじゃないかと囁くもうひとりの自分を黙らせて、ただひたすらにゴールを目指した。
また北京マラソンに帰ってくるかどうかはわからないが、わたしはこの日のことを忘れることはないだろう。ゴール前の大声援、中国の人たちと一緒に走った大陸の道。わたしの中の何かが大きく動き始めた日となった。
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