高野山大門から町石道を駆け下りながら、お遍路でのつらかった出来事がフラッシュバックしていくのを感じる。この道をお遍路のお礼参りで通ったのはもう何年も前のこと。まさかその道をこうしてランニング仲間と駆け抜けることになるとは思いもしなかった。きっとあのときからすべては繋がっているのだろう。神様も仏様も信じないわたしでも、高野山にいると神様や仏様の思惑というものを感じずにはいられない。
万里の長城マラソン日本事務局を一緒に運営しているヒロトのイベント「せからん」企画をサポートすることになり、金曜日の仕事を定時に終えて向かったのが和歌山の九度山。1月に九度山世界遺産マラソンを走ってから今年2回目の九度山となった。伊勢神宮にはなぜか近づくことも出来ないのに高野山には呼ばれている。わたしの前世はお坊さんなのだろうか。
土曜日からの「せからん」に参加したのは主催者側も含めて12名と地元のサポートが2名。万里の長城マラソンもそうだがこれぐらいの人数がお互いの距離を縮めるもっとも最適な人数だろう。ほとんど時間をかけずに参加者が仲間へと変わっていくのを感じることができた。初対面で緊張している人もいるのだろうが、全体としてはいい距離感で最初の目的地、慈尊院に到着した。
せからんは世界遺産をただ観光するのではなく、学び(Learn)、自分の足で体感する(Run)するイベントだ。今回は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の高野山と九度山の町を自分の足でまわり、学ぶことが目的になる。だから、ではないが世界遺産ではガイドさんが案内をしてくれる。もちろん慈尊院でもガイドさんが深い説明をしてくれる。移動中は地元の人が九度山や高野山について裏話も含め紹介をしてくれる。そこらへんのガイドツアーと比較する意味すらないほど、リアルな世界遺産に触れることができるのだ。
今回のせからんの目玉は宿泊だ。間違っても町中のホテルに泊まるわけがない。携帯電話が圏外になる山奥の民家を借り切っての合宿状態になる。夜は泊れない人も含めて懇親会。主催者が用意した猪肉を使っての猪鍋作りを夕方から開始だ。調理の間に銭湯に行く人もいれば、トレイルランをする人もいる。料理長に任命されたわたしは女性陣の手助けにフォローされながら猪鍋の調理。よくよく考えてみたら料理長は味見以外何もしていない…
鍋が完成して参加者がそろったら宴の開始である。正直この宴がメインと言っていい。人と人との距離を縮めるのはお酒と美味しい食べ物があれば十分だろう。仲が深まらないわけがない。世界は思った以上にシンプルにできている。
もちろんお酒だけではなく、九度山や高野山の持つエネルギーのようなものが人と人とをつなげているのかもしれない。誰にでも心を開きたくなるような、自然体の自分でいることが許されるような雰囲気が九度山や高野山にはある。少しも飾らず、虚勢を張る必要もない。空海さんは全部まるっとお見通しな。大事なのは見栄ではなく、いまこの瞬間を楽しむ気持ちだ。
九度山の町は本当に小さくて、それでも九度山に人が集まるようにといろいろ面白いとアイデアを出し、実践している。九度山のコンテンツは慈尊院と真田昌幸、真田幸村の親子だ。町もしっかりそれをPRしている。それでも天候のせいもあってか町を歩く観光客の姿があまりにも少ない。いや、これが地方の観光地の現実なのだろう。自治体がどれだけ頑張ってPRしても思った以上に効果が出ないのではないだろうか。
新しくできた九度山の道の駅をみて思うのは、「なんでもある」のは「なんにもない」というのとさして変わらないということ。「これしかない」から特色が出る。九度山には他の地にないオンリーワンがいくつもあるのに、あれもこれもと欲張りすぎてオンリーワンが目立たなくなっている。すごくもったいない。
九度山の町をもっと良くしたい。今回のせからん企画はそういう地元の人たちの思いが詰まっているイベントなのだろう。大事なのはこれを10年20年と続けて行くことだろう。行政や地元の人の努力を継続すること、小さな変化を積み重ねることで、ある日突然大きな流れとなる。
せからんも九度山の町もこれからもっともっと魅力的な存在になるのだろう。その過程を自分の目で見続け、感じるためにこれからも九度山の町に足を運びたい。そう感じたせからん1日目の夜だった。
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