自分で言うことではありませんが、私は比較的長距離が得意なタイプで、長時間走り続けることを苦痛に感じることもありません。むしろ東海道や中山道を走るというように、何日も続けて走るというようなことも、苦痛どころか楽しく感じます。
長く走り続けることもできますし、今はだいぶ走力が落ちていますが、かつてはマラソン大会でもそれなりの順位に入り、花蓮太平洋縦谷マラソンでは年代別で2位に入ったこともあります。自慢をしているわけではなく、走るのが得意ということが、ただの妄想ではないということを伝えるために事実を並べただけです。
さて、そこで今日のテーマですが、大雑把にまとめると「走るのが得意なのは才能か」になります。実際には「走る」だけでなく、あらゆる分野において「努力では乗り越えられない壁があるのか」について、私なりの考え方をお伝えしていきます。
まず私自身の「走るのが得意」というのは才能かどうかですが、もちろん才能ではありません。もしかしたら遺伝子レベルで適性がある可能性はありますが、たとえば私がスイミングを習わず、少年野球もサッカーもしていない、文系男子として育っていたとしたらどうでしょう。
きっとフルマラソンを完走することもなかったでしょう。いまの私が曲がりなりにも走れているのは、幼い頃から運動をしてきたことが影響しています。これは当然のことながら「才能」ではありません。ちなみに私はスイミングも野球も、他の競技もすべて下手でした。
それは謙遜とかではなく、とにかく運動神経が鈍くて、少年野球では公式戦なんて1度も出場したことがない気がします。サッカーもプロを目指しましたが、高校時代はベンチ入りすらしていません。最初から平均以上のことができたのはマラソンがはじめてで、それは他の競技で運動を続けてきた結果でしかありません。
それではこの世界に乗り越えられない才能の壁がないのかというと、もちろんそんなことはありません。どれだけ努力したところで、私がキプチョゲよりも速く走れることはありません(キプチョゲがリタイアするケースを除き)。スポーツにしても勉強にしても才能や才覚というものは間違いなくあります。
たとえば才能がある人間が努力積み重ねて出せるMAXを100とします。私がどれだけ努力をしても100には届きません。才能を持たない人がどれだけ努力をしても90くらいがいいところ(あくまでもイメージですが)。ただ、私が才能とか努力とかについて伝えたいのはそこではありません。
才能の差を語る人は、40とか50とかそんな低いところで「自分には才能がない」と嘆いています。努力次第で90まで伸ばせるのに、努力を積み重ねることも、最後までやり抜く覚悟もなく、結果を出している人に対して「自分とは違う特別な存在」だと決めつけてしまう人があまりにも多すぎます。
誤解を恐れずにはっきりと言えば、ほとんどすべての人に足りないのは才能ではなく努力と覚悟です。ランニングなら1週間に160km走るのを3年間続けてみる。ライティングなら1日2万文字を3年間休むことなく続けてみる。そこまでやって、はじめて自分のポテンシャルを最大限に引き出す準備が整います。
そして努力を積み重ねて自分の能力を限界値の90まで引き上げてから「やっぱり乗り越えられない壁はある」と小さく呟いて、自分の限界を受け入れる。それが私にとっての敗者の美学。弱さに抗わず、ただ上だけを眺めているスタンスに美しさはありません。
ただ誰もが幼い頃に通過した「なんのために生まれて、なにのために生きる」の答え探しから逃げた人には、努力する意味は見つけられません。目的のない努力を延々と積み重ねることができるほど、人間は強くありませんから。もし、それができる人がいるなら、その人こそ本物の天才なのかもしれません。