適応力:素晴らしい能力は時として人生をつまらなくさせる

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自分で言うようなことではありませんが、私は模倣することが得意で、運動にしても学習においても、正しく理解するという能力に関しては、それなりのものを有しているつもりです。そして運動においては、理解したものを自分の体を使って再現することもできます。

いつからそのようなことができたのかはわかりません。少なくとも大学時代まではそのようなことができた記憶はありません。理解するというという点においては、高校時代にはそれなりに習得していた気がしますが、運動に繋げるということはできていませんでした。

たらればを言っても仕方ないのですが、あの頃の私に、今の私自身がパーソナルトレーナーとしてつくことができたら、きっとサッカーで食べていくという未来も、絵空事ではなかった気がします。賢くはあったけど、技術が伴っていませんでしたので。


あの頃の自分から考えると、今の吸収力の高さは、気持ち悪さを感じます。そして最近気付いたことなのですが、そこには「成長する楽しみ」というものが不足しています。最近ランニングで新しい取り組みをしているのですが、1回で効果を体感できることが多々あります。

ピラティスを始めた頃は、その効果を感じるまでに3年近くかかりました。裸足ランニングだって自分なりのやり方を見つけるのに数年かかりました。でも、今は論文に書いてあることも、動画で見たことも、頭の中でイメージできれば大抵できてしまいます。

もちろんダンスのようなリズム感の必要なものは簡単ではないと思います(もしかしたらできないかもしれない)。でも、ランニングに関することなら大抵できます。ただそれは退屈な一面もあるという話です。時間をかけて習得するから学びは面白いものです。


裸足ランニングにハマったのも、正解を見つけるために試行錯誤していたからです。ところが最近は試行錯誤の期間があまりにも短すぎて、下手すれば初見で「こうあるべき」が思い浮かび、それを頭でイメージしたら、体が勝手に適応力するなんてこともあります。

流石にそこまでくると気持ち悪さを感じるというのも理解してもらえるかと思います。自分の理解の範囲を大幅に超えて、体を自由自在に動かせる。そしてそこに物足りなさを感じています。成長は生きる糧であり、人生の醍醐味ですから。

でも、世の中においては適応力が高いことのほうが重宝されます。物事を正しく進めることができるので当然ですが、これも度を超えると得体の知れない存在みたいになってしまいます。爪を出しっぱなしの鷹みたいなもので、危機感のある人は近寄りません。


仮に爪を上手く隠したところで、学ぶことの楽しさはないままです。もちろん、ひとつの動きを簡単に再現できることと、自分の血肉にすることは違います。新しい動きを覚えたとしても、精度を上げるために積み重ねていく必要があります。

ただ、そこはとても地味なことで長い年月がかかるり下手すれば成長を全く感じられない人もいます。でも、継続する以外に精度を上げる方法はありません。自分で理想の走り方をイメージして、それを習得するのに積み重ねること。

そこは適応力が高い人もそうでない人も同じ。選択肢は「やる」しかありません。ただ、試行錯誤が必要なくなった私が、これからもランニングに対して高いモチベーションを持ち続けられるかどうかはわかりません。やっぱり楽しいのは変わっていくことですから。

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