土曜日に父の十三回忌の法事でした。
さすがにこれだけの月日が流れていると、読経の最中に父のことを振り返ることはあっても、そこでグッとくるというようなこともありません。ちゃんと自分の中で消化できたということでしょうか。
そうなってくると、余計なものが目に入ってきます。
お坊さんの所作が美しくないなとか。
人の所作をどうこう言えるほど、自分の所作が美しいわけではありませんが、やっぱり立場相応の立ちふるまいというものがあるべきだとわたしは思っています。
お坊さんらしく美しくしないさいというのではなく、美しくないお坊さんからは自然と人が離れていくんじゃないかなと。もちろん、お坊さんは例であってわたしたちにも同じことが言えます。
わたしなんかの場合には、ランニングフォームが美しくないといけないと思っています。速いことよりも美しい、もしくは目を引くものでないと、自分の言葉が軽くなってしまいます。
シューズについてあれこれ語っていますが、それもドタバタ走っていたのでは、きっと今のような立場にはいられなかったと思います。
速くないならせめて美しく。
そういうわたしもかつては猫背がひどく、姿勢の悪い時代が長く続きました。それを改善できたのはピラティスのおかげですが、ピラティスもひとつひとつの所作を大切にする先生から学べているのが大きいような気がします。
たらればを言っても意味はありませんが、他の先生に習っていたら、今ごろはまだ1人のどこにでもいるランナーだったかもしれません。それはそれで楽しいランニング人生かもしれませんが。
所作が美しいというのはとても大事なこと。それは丁寧であることとは少し違います。丁寧な動作というのはどこかに無理が出てしまいます。自然体ではないからです。
でも美し所作は、その動きがその人の持つ本来の動きだから淀みがなく目を引きます。
最初から淀みがなかったわけではないのでしょう。ぎこちない丁寧な動作を何百回何千回も繰り返した結果、自分の体に沁み込んで自分のものにできたのかもしれません。
ただ、無自覚にできることではありません。人間は何も考えないで体を動かすと、どうしても動きが雑になります。それはマラソン大会を走っているランナーを見ていてもわかります。
自己流で走っているランナーの多くは、動きに無駄が多く美しさはありません。
でも、体の使い方について日々考えて試行錯誤しているランナーの走りには美しさがあります。見惚れてしまうくらいきれいに走るランナーが時々います。
そういう人を見ると、「どれだけ練習を積んだんだろう」とため息が出てしまいます。そして、自分はまだまだだなと思い知らされます。
未熟なくらいが伸び代があっていいと強がってはみますが。
毎年言ってるんですが、やっぱり所作の美しい人になりたい。ランニングフォームだけでなく、日常の一つ一つの動作が美しい人に。先は長そうですが、コツコツ積み重ねは得意ですから。
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