報われない美しさ

乃木坂46が好きということは、これまで何度かこのブログでも書いてきた。ただ何かに熱狂するタイプの人間ではないので、ライブに行くようなこともなく、握手会に行ようなこともない(そもそもアイドルと握手をすることに1ミリもメリットを感じない)。

ただ走るときに彼女たちの歌を聴き、ときどき動画を見たりもしている。

深く入り込むことはないのだが、もう3年近く追っていると自分なりにアイドルグループというものが見えてくる。何十人もいるグループにおいて出番を与えられる存在とそうでない存在がいて、わたしはそうでない存在が気になるらしい。

乃木坂46は選抜とアンダーの2グループがあり、選抜にほぼ固定されている人もいれば、1度も選抜を経験せずにアンダーに属している人もいる。そしてその中間にいてCDごとに選抜とアンダーを行き来する人もいる。ファンにとってはそこにドラマがあるわけだが、実際には予定調和なのだろう。

これはわたしの感覚だが、彼女たちはそれぞれに役割がある。乃木坂46というグループを牽引し、メディアでも中心的存在として扱われる。これがある意味乃木坂46の光の部分であり、ファンは自分の推しているメンバーがその立場になることを願っている。

だが、その役割が与えられるのは数名だけ。役の数には限りがあり、すべてのメンバーに役が与えられるわけではない。いや、実際にはすべてのメンバーに役はある。例えば「どんなに努力をしても報われない役」というのがある。言葉にするとなかなか悲惨な役なのだが、アイドルグループには必要な存在だ。

ファンの数が多いのはメディアの露出が多いメンバーだが、スポットライトが当たらないメンバーがいることで、グループに深みが生まれる。だからプロデュースする人は陰となる「どんなに努力をしても報われない役」を意図的に作り出す。

みんなに平等に光が当たるわけではないというのが、乃木坂46が人気になった理由のひとつだと、わたしは分析している。事実わたしは「不遇の2期」やアンダーメンバーが好きだったりする。報われないから気になるし、そこで挫けずに前を向いている姿が気になる。

ただ、ある日わたしはふと気づく。彼女たちはそういう役割を演じているのではないかということを。意識的なのかそれとも無意識に演じているのかはわからない。以前は「なぜあの子は報われないのだろう」と不思議に思っていたが、報われないのではなく、そういう役を与えられているのだ。

報われないう役を演じる仕事。言葉にするとやはり残酷だが、それでグループ全体の魅力が上がれば、自分の可能性も広がる。すべてはグループのためであり、グループが成功するためには、損な役回りを続けさせられるメンバーだっている。

乃木坂46というアイドルグループは、壮大な筋書きがある演劇のようなものなのではないだろうか。若い女の子が演じているので、すべてが台本通りというわけではないが、予定外の出来事も上手くつなぎ合わせて、ひとつの物語になる。

長々と書いたが、別にアイドル論を語りたいわけではない。わたしごときがアイドル論なんぞ語っても、本物のファンに5秒で論破されるだけだろう。わたしが伝えたいのは、現実の世界もそう変わらないのではないかという話。

人生においてもエースや4番になれる人は限られていて、少なくともわたしはそうではない。そのことを悲観的に考えて「自分なんて」と自分を蔑む人もいるし、自分を不幸だと思う人もいる。いろいろと諦めてしまった人もいるはずだ。

ただ、わたしのように「報われない」ことに美しさを感じる人もいる。「報われないからやらない」という判断はとても合理的だが、美しさは微塵も感じない。咲くことのない花に水をやり続ける美しさ。この場合、花が咲かないことに意味がある。咲いてしまうと美しさが崩壊する。

この感覚を伝えるのはとても難しい。きっとほとんどの人がハッピーエンドを望んでいて、努力は報われるべきだと思い込んでいる。でも、間違いなく報われないから完成する物語や美しさがある。完成したパズルよりも未完成のパズルに魅力を感じる。

少し歪んでいるのかもしれない。だから同意は求めない。

報われないことを肯定しているわけでもない。ゆっくりかもしれないが、いずれ花は開くと信じて積み重ねていくことが大前提だ。ただ、それで花が咲かないことを恥じる必要も悲しむ必要もない。花が咲かなかったことでしか完成しない物語だってあるのだから。

だから周りに何を言われても、「その花は咲かないよ」と教えられてもわたしは水をやり続ける。大事なのは咲くかどうかではなく、諦めることなく水をやり続けること。少なくともわたしはそれを美しいと感じるのだから。

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