生きるとは経験を積むこと【華がないから言葉を紡ぐ】

マラソン大会に行くと、会場だけでなく前日からブログの読者に声をかけられることがある。ありがたいことだが、不用意な行動を取らないように気をつけなくてはと思ってしまう。「こんびコンビニでグラビアページを立ち読みしていた」なんて噂が立ってしまうと困る(こまりは困りはしないか)。ただ、少しだけかかっこつけ背筋をた正すことになる。

そして、とうとうこの日がやってきた。UberEatsの配達で顔を指された。ドロップ先であるマンションのエントランスで名前を書いていたら「ランナーの方ですか?」と。こんなに広い東京で、自分のブログの読者にそんな形で会うなんて奇跡以外の何ものでもない。マスクもしてるし帽子も被ってるし、裸足じゃないし、絶対に大丈夫だと思っていたが、まさか記名でバレてしまうとは。

もっとも隠していたわけではない。そうやって声をかけてくれるのは、この上なく嬉しいことだ(美人さんだったので余計に)。ただ、こういうことがあると、配達中もちゃんと背筋を正さなくてはいけないなと思わされる。間違っても、ピックアップ先で料理ができていないくらいでイライラしてはいけない。自転車の運転も丁寧にしなくてはいけない。

キリスト教では「神様が見ている」から悪いことはできないらしいが、ハダシストは読者が見ているから悪いことはできない。わたしなんかでそうなのだから、村上春樹さんとか北方謙三さんとか街を歩くのも嫌になりそうな気がするが、きっとそのクラスの人たちは街を歩かないし、間違っても自転車でデリバリーなどしない。

わたしは彼らにできない経験をしている。問題はその経験を物書きとして活かすことができていないことなのだが、いつも言っているように人生万事塞翁が馬。いずれどこかで役に立つ日が来るだろう。この、どこかで誰かが見ているかもしれないという経験も、何かの役に立つかもしれない。誰にでも経験できることではない。これはわたしだけの武器なのだ。

自分で言うのもなんだが、わたしは普通ではない経験をそれなりに積んでいる。万里の長城マラソンの事務局をしていたり、PV撮影のためにウイグルにまで行かせてもらったこともある。中国にも台湾にも友達がいて、ワークマンのCMに少しだけ出て……ワークマンは本音の意見を言ったら、ちょっと面倒なやつと思われたかもしれない。

アンバサダーを打ち切られるかもしれないが、まあ仕方あるまい。アンバサダーらしいことは何もしていないわけだし。それはともかく、ちょっと変わった生き方をしている自覚はある。面倒なのは、自分にスター性がないということ。目立つようなことをしていても、華がないから人を惹きつけられない。世の中にはそこにいるだけで空気が変わる人がいるが、残念ながらわたしはそうではない。

自分に華があるなら自己プロデュースでどんどん自分を前面に出していけばいいのだが、天は二物を与えてくれない。そういえば華のある物書きというのはあまり聞かない。北方謙三さんなどは雰囲気があるが華があるのとは少し違う。村上春樹さんも村上龍さんも、華があるタイプではない。西加奈子さんも浅田次郎さんも。

わたしがそういう作家さんばかり好きになっているのかもしれないが、作家というのは常に足りないものがあり、それを補うために言葉を使うのかもしれない。美男美女の華があるタイプの人はいつも満たされているから、言葉を駆使する必要などないのだろう(そうであって欲しいという願望)。大体、文学好きというのはクラスでも目立たない存在なのだ。

話が大きく逸れたが、修正不可能なくらいズレたのでそのまま書き続けるとしよう。人生において大事なもののひとつに経験というものがある。わたしなんかは、沢山の経験を積むために生きていると思っている節がある。それはいいことばかりではなく、悪いことも含めて。わたしにとって人生でやってはいけないことは自殺だけ。

気になったことはなんでもやってみる。五街道制覇もそうやって達成させたし、Uber Eatsを始めたのも経験してみたかったから(ライティングの収入が減ったのもあるが)。そこで失敗したって、それも人生の1ページだ。経験したことは必ずどこかで活きてくる。それは無意識の部分かもしれないが、無駄になることはない(たぶん)。

動けば何かが起きる。じっとしていても何も変わらない。経験を積みたければ動く以外の選択肢はない。やりたいと思ったことを追求すればいいし、どんどん周りを巻き込んでしまえばいい。華があるかどうかなんて、本当は気にする必要はない。挑戦しないための言い訳で、きっと逃げているだけ。もっといろんな場所で顔を指されるように、自己プロデュース……ごめん、やっぱり無理。

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