美味しいものを知ることは本当に幸せか【幸福感は相対的なもの】

旅ランをしていると、全国の美味しい料理に出会えます。東北横断ランを終えて向かったお寿司屋さんのお寿司は格別の味わいで、食いしん坊としては、こういう出会いがあるから旅ランはやめられないなと思うわけです。ほぼ食べるためだけに旅ランをしているようなものですから。

知らない土地で自分好みのグルメに出会う。それはもう奇跡のようなもので、それはそれは幸せなことなのですが、それと同時に不幸へと向かっているのではないかと思うことがあります。なぜなら、より美味しいものを知ってしまうと、自分の中の美味しいのハードルが上がるから。

それだけならまだいいのですが(まったくもって良くありませが)、たとえば他の誰かが美味しいと言っていたお店なのに、自分にとってはそうでもなくてガッカリすることが増えるという問題があります。これはもうかなりひどい話で、人間性を疑うレベル。

もちろん、自分の舌に合わないときは無言で過ごしますが、合わないと感じる傲慢さを良くないなと思うわけです。きっと世の中の美味しいものを知らなければ、「これ美味しいやん!」ってなっていたものを、「うーん」ってなる。不幸以外の何物でもありません。

幸せというのは結局のところ相対的なもので、今よりも上なら幸せで、今よりも下なら不幸になります(かなり雑な説明ですみません)。現在地「1」の人が「3」になれば幸せで、「6」の人が「3」になったら不幸なわけです。同じ「3」なのに、最初の立ち位置で感じ方が変わります。

それなのに私たちはより高いところを目指してしまいがち。別にそれを否定するつもりはありませんが、高いところに立てば、もっと上を目指さないと幸せや幸福感を得られないのに、高いところに立つことが正しいという思い込みに支配されているわけです。

だからみんなで貧乏になろうぜなんてことを言いたいのではなく、幸せになりたかったら、幸せを追ってはいけないって話を伝えたいだけです。この国には「ハレの日」というものがありました。過去形なのは、すでにその考え方をする人が減ってきたから。

美味しいものを食べる、欲しいものを買うなどを「ハレの日」に行うわけです。特別であることを明確にするから、それに溺れることがありません。お祭りも似たようなところがあります。お祭りの日は特別なわけです。だから、其れが日常にはならないわけです。

毎日がお祭りでもいいじゃないか。本当に美味しいものを毎日食べられるようになればいいじゃないかという考え方もあります。むしろ、そこを目指すことが正しいとされてきました。でも、もうみんな気づいているはずです。自分は特別ではないということを。

特別な才能があるわけでもなく、特別な環境で育ったわけでもない。ある日突然、人生が変わることなんてありません。今いる場所から数歩程度前に進めるか、もしくは後退するかだけ。だとしたら、いつまでも自分が特別な人間だなんて思わないことです。

特別じゃなくても、面白おかしく生きることはできますし、幸せを感じながら暮らすこともできます。ただ、追いかければ追いかけるだけ逃げていく。しっかり地に足をつけて、今できることを積み重ねていく。私たちがすべきことはそれだけで、そしてハレの日には贅沢をする。

少なくとも私はそれでいいかなと。幸せを追いかけるレースからは降りて、もっと今この瞬間を大切にする。少しも魅力的な生き方ではないかもしれませんが、リソースが限られているなら、正しく割り振るのが基本。美味しいものを追求するのも、程々にしなきゃですね。

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