男らしさと女らしさについて一度立ち止まって考えてみたほうがいい

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本当にもう手放せるものが見当たらなくてだいぶ困っている。どうしてそこまでやるのかとよく聞かれる。「男は一度やると決めたことは最後までやれ」と父から学んだ言葉。そう男がやると決めたから365日やるしかない。

このブログをちょくちょく読んでくれている人は薄々気づいているとは思うが、わたしは男と女をはっきり分けて考えている。男女平等なんてクソ食らえだと思っている。

そんなことを書くと気分を害する人も大勢いることをわかって書いている。それでも男と女では能力を活かせる場面が明らかに違う。その何もかも平等だというのは考えることを放棄しているだけだ。

この国では人を雇うときに男女の区別をしてはいけないという法律がある。雇用のチャンスは平等であっていいだろう。女だから男だからと門前払いをするのは間違っている。だからといって男女の向き不向きを無視する訳にはいかない。

例えば機械設計の仕事であればほとんど確実に男のほうが絶対的に向いている。経験値の高い男の設計者のほうが多いというベースもあるのだが、空間把握能力が男女でまったく違う。

それでも派遣社員を依頼するとき法律上は面接を禁止している。書類上だけで決めなくてはいけないのであれば、男女の選択肢があった場合、少なくともわたしなら女の設計者を選ぶことはない。

他の業界については知らないが、機械設計とは反対に女のほうが向いている仕事というものも必ずある。

わたしには女の美しさもなければ、母親の包み込むような優しさも持ち合わせていない。今の時代は男でも女らしく、女でも男らしく生きることが可能ではあるが、それはどこかで必ず無理が生じる。

そもそもの大前提として、男は子どもを埋めない。自然界においてさえ男女では役割が明確に違う。この国の偉い人たちはその役割を議論することがめんどくさくて「平等」なんて口にしているのではないかと疑ってしまう。

結婚する気もないわたしが言うのもなんだが、男女が平等という声が強くなってから晩婚化、少子化が進んでいるのは明らかだろう。国が「平等」を謳うなら「晩婚化」や「少子化」を嘆くのは間違っている。

それぞれの役割をとことん議論した上で、そこをベースに平等を語るべきだろう。思考停止した状態で「男女平等」などと言うから、その先に待っている未来を想像することすら出来ないでいる。

わたしは「男として」とか「男なら」という言葉をあえて使っている。男女は肉体的にも精神的にも、その思考回路さえも明確に違うと考えているからだ。わたしがそういう言葉を使うとき、少なくとも女に同じことを求めないという表現であったりもする。

「男は一度やると決めたことは最後までやれ」
「女は一度やると決めたことは最後までやれ」

わたしの感覚でしかないが、どう考えても後者はしっくりこない。差別と言われればそれまでだが、わたしは女にそれを求めてはいない。男の頑なさは魅力になるが、女の頑なさは魅力になりにくい。

男は強くあれ、女は美しくあれ

きっと古い考え方なのだろう。多くの人に受け入れられないことは承知している。でもここまで多くのことが狂ってしまった世の中で、人間が人間らしさを取り戻すには、男らしさと女らしさについて一度立ち止まって考えてみたほうがいいのではないだろうか。

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